04



「――ラビ!」

 このままじゃまずい。すぐに動いたアレンは冷静に、持てる力の限りを使って根が生えたように立っているラビの胸板を押した。異様な空気に震え上がっているリナリーの腕を引くと振り返らずに生徒玄関目掛けて走るよう指示する。アレンに名前を呼ばれてはっと目を見開いたラビはリナリーと一緒に走り出した。

「行って! 絶対に振り返らずに走れ!!」

 返事の代わりに二人はスピードをぐんと上げる。そのまま向き直ると警戒するように神経を張り巡らせながら空を睨むように見つめた。来るなら来い、もうここに残っているのはアレンだけだ。クロスに教えられた除霊の方法を何度も頭の中で反芻しながら息を整えた。どろりと煮詰めたような陰鬱とした雰囲気にたじろぎながらも何とか持ち直す。そうは言ってもアレンは正直不安で押しつぶされそうだった。学校の怪談なんて姿や形を変えて長く語り継がれるものである、そんな人間の怨念や思想に塗れた物を相手にするなんて相当に決まっている。抑え込めずに呑まれたりなんかしたらそれこそ取り返しのつかないことになる。なんとか、なんとかしなければ。焦燥に駆られながらアレンはゆっくりと教室へ近づいた。ひゅうひゅうと意志を持って追い立てるような風が吹く。別にどんなおぞましい姿をした悪霊がいようと、その辺は大丈夫なはずだった。アレンは奇っ怪な左手を持って生まれてきたのだし、蔑まれたり気味悪がられたりするのには慣れていた。クロスは反吐が出ると言っていたが、同じように怯えられ忌み嫌われる霊とか悪魔とか、そういった類のものが可哀想だと思っていた。同情、なのだろうか。幼い頃から親近感が湧くようなそんな行き場のない感情を抱えていた。払うならせめて「ありがとう」と言われるような安らかな最期であってほしい。と言うのがアレンの願いだった。計り知れないかなしみや怒り、恨みを浄化出来ずに現世に留まるすべての魂が心地よい眠りにつけることを誰よりも望んでいる。この女の子はきっとさみしがっているのだ。ラビが言っていたように、みんなが大きくなって忘れていってしまうのがどうしようもなくせつなくもどかしいに違いない。僕だけは忘れないよ。もう大丈夫だから、話を聞かせてくれないかな。泣き喚く赤子をあやすようにして魂に呼びかける。ひとつ息を吐いて教室のドアに手をかけた。

「……ぐすっ」

 中にいたのは、こちらに背を向けて自身を守るようにしてぎゅっと四肢を抱き締めている少女だった。すぐにこの子がなまえだと分かる。教室が薄暗く、彼女が丸まっているせいで断言できないが、あまりアレンと歳は変わらないような印象を受けた。そう思ったのは向けられた背中があまりにちいさく、弱々しかったからかもしれない。やけに音の響く教室の造りと、窓を通る風のせいか脚の隙間からめそめそとくぐもった声が聞こえた。物凄い形相で髪を振り乱して追いかけられるよりはずっとマシだが、分かりやすくアレンに楯突く気がない相手というのもまた面倒だった……これは、さっさととっ捕まえるワケにもいかなそうだな。油断させて突然襲ってくることがないように気を張りながら教室の中へ足を踏み入れた。一歩入った瞬間にホラー映画よろしく、いきなり目の前いっぱいに飛びかかってくることもないとはいいきれない。万が一とクロスに持たされた護符やらお守りやらをポケットの中で強く握り締めた。せっかく鎮まっているのに下手に動いて攻撃したくはない。どうしたものかと逡巡して、アレンはできるだけ刺激しないよう務めてやさしい声色で話しかけることにした。

「なまえ、ですよね。どうか落ち着いて聞いてください」

 脅かされているのはこちらだと言うのに、アレンは彼女を怖がらせないようにすることでいっぱいいっぱいになっていた。変な感じだなあとどこかで冷静な部分がそう言った。実際、本当に変だなと思った。妙な違和感が拭いきれないのは、きっと彼女から攻撃の意思が読み取れないからだ。なまえは答えない。アレンに気づいているのかさえ疑わしくなった。おそらく気づいてはいるのだろうが、どちらかと言えば気にもとめない様子だ。果たしてさっきのポルターガイスト騒動は彼女が起こしたのか疑問だった。ここに来てアレンが思ったさみしさや怒りの感情があるはずという信念が揺らぎ出す。大体は負の感情が残っているからこそ淀んだ形で現世に姿を留めているのだが、あの特有の不気味な空気がさっぱり消えてしまったように思う。それも彼女の意思とは無関係に。

「ありがとう」

 この返答が来るまでにアレンがたっぷりとぐるぐる思案する時間があった。黒髪が揺れてなまえが振り返る、まだ幼気な可愛らしい顔立ちの少女だった。涙のあとがひかる、泣き腫らした顔をしている。うっとアレンが言葉に詰まる。一番やりにくいパターンだ。この学校の生徒を恐怖におとしいれた三階の幽霊・基なまえ、しかし彼女は女性である。レディーファースト文化が染み付いているアレンはお国柄から全ての女性という生き物に強く出れなかった。自分は試されているのかと頭を抱える。しかし何に対しての感謝なのか読み取れない。

「あー、ええと……」
「急に鍵がかかって出れなくなっちゃって」
「え?」
「一年生だよね。開けてくれてありがと……」

 柔和な眼差しだった。まるで生徒として過ごしているような口振りにアレンは何度か瞬く。しかも自分が新入生だと言うことも知っているらしい。彼女は呼び寄せられるように突然現れたはずだ、これでは会話が噛み合わない。そこで漸くこの違和感と結びつく一つの確証が浮かび上がった。

 彼女は自身が死んでいることに気づいていない。

 あの日からずっと、なまえの時間は止まっていて、灰となった骨が土に埋められていることを知らずに、文字通り死んだまま生きている。アレンは嘆いた。生前の記憶の中を彷徨っている、だから生きた人間と時空のズレが生じている。土地と強く結びついた魂が混在する、この場所の記憶の中を永遠にたゆたっているのだ。クロスから聞いたことがあった。彼はそういう人たちの魂を何よりも哀しいと言っていた。アレンもそう思う。何も知らないで、虚像を見出して留まっている。すくっと立ち上がった彼女の、涙に濡れた長いまつ毛。出れなくて怖かったの、と力なく笑うその腕をそっと掴む。確かに触れているはずなのに、感覚もなくゾッとするほど冷たかった。アレンはその温度に棺桶の中に横たわる華奢な四肢を思い浮かべる。

「思い出して、あなたの居場所を」

 今度はなまえが困惑する番だった。黒く潤んだ瞳が開閉され、徐々に大粒の涙が溢れ出す。アレンの言葉が引き金になったのか、なまえは訳が分からずとも魂は呼びかけに対して共鳴し始めていた。なに、なにこれ、と彼女は透けて消えていく身体に驚愕する。安堵させるようにして背中に腕を回した。

「おやすみなさい」

 どうか安らかに。ぼろぼろと涙をこぼしながらアレンにすがりついてなまえは泣いた、最期まで状況が飲み込めずに困惑しているようだった。この姿が、どんな魂よりも痛ましく感じる。分からないまま洗われて、気付いた時には魂は無に還っているのだ。可哀想で愛おしいと思った。形をなくして消えていく少女の手を強く握りながら決して忘れないよと囁く。アレンの頬には一筋の涙がひかっていた。



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