17



 この世界で一番悲しい景色が目前に広がっている。瑞々しい青の昼下がりはどこへ行ってしまったのか、ぐわっとした高波のような夕立に降られている。彼女とした事がうっかり傘を持ってきていないと気づく。言い訳するならば、今朝は中々妹離れ出来ずにいるいい歳した兄が三徹明けでぐったりとしていて、その介抱に忙しかったからだ。少し年の離れている彼女の兄は将来研究職に就くことを目標にしている。多忙なせいでろくに睡眠時間が取れていないのが心配だった。簡単な朝食を用意していたら天気予報のチェックを忘れてしまった、まあ、カラカラに太陽が照っていたので雨は降らないだろうと思っていたが。しかし夕立となれば仕方がない。空はリナリーの心をそのまま反映したような天気だった。いつまでたっても落ち着かない、心が散り散りに砕けてしまいそうでとても苦しい。そう、ほんとうに苦しい。彼の前では年上ぶっていい顔をしているだけの自分に嫌気がさした。

 自分にしろ他人にしろ、昔から何か嫌なことがあると幼なじみの元へ逃げ込んでいたことを思い出す。鬱陶しいと手で払われながらもべそをかいてくっつき回ったものだ。きっと心底嫌がっていただろうに、当時の自分は逃げ場が欲しくてどうしようもなかった。今その話をすれば急に何だと眉根を寄せる姿が簡単に想像できる。けれど、兄妹のような間柄の彼にこういう話を持ち込むのは何か違う気がして真っ先に頭に思い浮かぶその人を一度忘れる。次に浮かんだのは真夏の太陽が良く似合う彼だった。考えてみればこんなことになったのには、少なからずあのちゃらんぽらんが関係しているのだ。女の子に特別やさしい彼なら誰かが本当に弱っているとき、親身になって相手を思いやりながら、真剣に聞いてくれると知っていた。寄りかかる場所が欲しくて祈るように淡く光っている液晶画面を握り締める。彼が通話に出るのにあまり時間はかからなかった。

「余計なお世話どうもありがとう」
「はは、怒ってる?」
「そうでもないわよ」

 素直に助かったと思った。こんな雨の中でたった一人、誰もいなかったら堪えきれずに泣いてしまっていただろう。もしもし、といつもよりトーンの低い彼の声を遮ったのは、早速目頭がじんわり熱くなったからだ。胸に大きなわだかまりがつっかえて息が出来なくなりそうだった。今は強がらなくたっていいのに気丈に振る舞うリナリーは強い。向こう側で見透かしたようになだめる声が聞こえてきて、もうダメかもしれないと思った。

「よく頑張ったな、おねーさん」
「……うん、わたし、年上だから泣かないよ」
「なんならお兄さんが慰めてやるさ」
「いいです」
「即答……オレ今傷つきましたよ……」

 乾いた笑い声だった。案外元気そうで安心したと告げた声色はいつにも増して真剣で、彼のこういうことろが好きだった。いつもふざけていなければ遊び人だと噂されたり、女の子に思いっきりビンタされることもないだろうに。

「なあリナリー、顔上げてみろよ」

 夕立は去っていた。灰色の雲間から薄い光が差し込んでいるのがまぶしくて、思わず目を細める。二階の校舎の窓から携帯を耳元に当てているラビがひらひらと手を振っている。辺りは既に、そこはかとない夜の空気を引き連れてきていた。その中でも彼は不思議と光を帯びているように見えるのは気のせいなんかじゃない。誰にだってやさしくてまっすぐ、特に女の子のこととなると放っておけなくて振り回されて、よく損をする。それでも周りを笑顔にしようとして、辛いときも真っ先に笑顔を浮かべることのできる人だということを知っている。




「なまえがいてくれてよかった」

 その言葉の真意に辿り着いて途方に暮れていた。彼は何か勘違いをしている、こんな魂の欠片にも慈悲をくれるなんておかしな話だ。アレン・ウォーカーはなまえという存在を愛している。存在、ということはその中身ではなく、あくまで入れ物に執着しているということだ。割り切っていたつもりなのに、今も尚この心臓は生きたような鼓動を打つ。じゃあ口付けは。アレンが自分に触れたことへの説明がつかなくて頭を抱える。どうして触れたいと思ったの、こんなわたしに、どうしてキスなんて。甘い匂いと光に満ちた口付けだった。その意味に知らんぷりできるほどなまえでは大人ではない。恐怖と歓喜が入り交じった身体をここ数日間引きずっている。肉体なんてないはずなのに、たった二十一グラムが増えた気がした。半透明の薄っぺらいくちびるを滑る指先が右往左往している。そんなことをしているうちに、今日は例のお祭りの日になった。どんな顔をして会えばいいのか分からなくて遠くでもよく目立つ白髪の彼を眺めていた。ただでさえ人混みの中にいるのに、流石のアレンもこの距離ではなまえを見つけることはできない。神社の鳥居からの眺めはなかなかいいものだった。色とりどりの浴衣の中に混じっていても彼女の目は一人だけを追いかけていた。あれはリナリーの家族だろうか、整った顔立ちや雰囲気がとてもよく似ている。今は丁度、眼鏡をかけた頭の良さそうな彼に尋問のごとく詰め寄られてリナリーから引き剥がされているところだった。少し離れたところでは赤髪の彼が食べ歩きしているのが見えた。制服を着たままの姿を見るに、どうやら受験生ということもあって多忙なようだ。そんな合間を縫ってお祭りに顔を出すあたり、こういう行事が好きなのだろう。その隣の黒髪の彼は興味無さそうに遠くを見ている。涼しげな目元はどこか悲しげだ。寄るべのない子どものような視線がこちらに向いた気がして胸が騒ぐ。

「ワーオ、めちゃめちゃ人多いさ」
「帰る」
「オイオイ待てよ! 先生と回りたくないとか言い出したのユウだろ!?」
「……チッ」
「あーあ。祭りには間に合ったものの、なんで悲しく男ふたりで回ってんのかね」
「リナとモヤシも居るはずだろ」

 いやでも、と何か言い淀んだラビは顎に手を当てて考え込んでいる。ふたりを邪魔したくないのだろうなと思った。あーだこーだと議論する彼らのそばを人混みなど関係の無いなまえは通り抜ける、鳥居から降りると丁度アレンとリナリーが石段を登ってくるのが見えた。逃げる間もなく鉢合わせてしまう。

「かえり、まってて」

 声には出さず、口の形だけでそう伝えた彼はいよいよ増えてきた人の波によって、あっという間に攫われてしまう。夢のように一瞬の出来事であった。どうしたものかと思えばそろそろメインの花火と灯篭流しが行われる時間らしい。会場に響くアナウンスと人の流れにならって、なまえもついて行くことにした。

「なーんか釈然としないよな」
「何がだよ」
「なんか、こう、仲良いのはいいんだけど、なんか違うっていうか」
「はぁ?」
「だーっ! ユウには分かんねえよ!」

 河川敷へ向かう人たちに灯篭を渡しながらラビがぼやくのが聞こえた。町内会の人たちのボランティアを手伝いながら、未だ視線は向こうで受付をしているアレンとリナリーを捉えたままだ。特にすることもないので彼らの近くをついて回りながら時々会話を聞いていた。気づいたことがある。ふ、と顔を上げてなまえは彼らの背が高すぎることに目を見開いた。いつの間に、と言いかけて時の流れは早いものだと思い知らされる。祭りに訪れた人に灯篭を手渡す彼らはなまえの記憶の中よりもずっと背が高く、声が低い。無理もない、あれからもう二年も経っている。生きているから、当たり前のことだった。一通り河川敷に移動したのか人の数は段々と減っていた。ひとりで花火を見るのも悲しいのでなまえはこっそり彼らに同行させてもらうことにした。

「これ、なまえちゃん弔う灯篭にするさ」
「……もう二年前か」
「なんか分かんねえけどさ、思い出すんだ。仲良くもなかったし話したことだって数回だけど、これは絶対忘れちゃダメだって」

 アレン以外に名前を呼ばれるなんてありえなくて、勢いよく顔を上げる。姿は見えていないとわかっていても息をひそめてしまう。誰かの記憶に残っていることはこんなにも嬉しいものかなと思った。

「俺たちが幾ら祈ったって死んだ奴らには届きゃしねえよ。こんなのは生きた人間の罪滅ぼしだ」
「ま、それもそうさね」

 長いため息のあとに灯篭は流された。その他のいくつもの灯篭がぼんやり光を放って、幻想的な夜に囚われる。光の中を歩いていく気分でなまえはそっと目を閉じた。



/
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -