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 灰色の分厚いガラスだった。窓の外からぼんやり光った曇り空が覗いていて、外は永遠に広がっているのにそこだけ切り取られたみたいに枠の中に収まっている。どこ、咄嗟に身体をひねって周りを見回すけれど心当たりはない。見覚えのない駅だった。人はいない。それどころかプラレールみたいに繋げられてどこかへ続いている線路が引いてあるだけで、プラットフォームには電車も人の気配も、何もなかった。ただ描かれているだけの白線の内側に立つ。音も色も、ここには何もないみたいだ。こんなに静かだとなんだか怖くなってしまうと思った。不安は無くて、代わりに穏やかな恐怖がゆっくりとした速度で歩んでくるのが分かる。今ここで彼の名前を呼んでしまうのはいけない気がして、一度開いた口をはくはくと動かすだけにした。

「ここ、落ちたら上がってこれねーよ」
「怖いこと言うなよ。想像したら鳥肌立った」
「電車通んないな」
「まだ来ないじゃん」
「あっち側行ってみようぜ」
「行けないよ」

 なんで?
 当然、ぱっと現れた子どもたちはさっきからそこに居たみたいに、さも当たり前というふうにお喋りしていたのでなまえはこの男の子たちはもしかしたらほんとうに、さっきから居たのかもしれないと思った。深淵の大きな穴を挟んで向かい側のプラットフォームのベンチに腰掛けたまま、おもちゃのミニ四駆をぷらぷら持て余している。確かに落ちたら上がってくるのは一苦労だろうな、身体の小さい子どもなんか、特に。それに電車が通るから危ないし。青いキャップを被った男の子によって空中走行しているミニ四駆を見ながらこのホームの下には大きな口を開けて待っている怪獣がいて、暗闇で息を潜めながら今か今かと息巻いているのではないか、というようなことを思いついたり忘れたりしていた。気づいたら男の子たちはいつまで経っても通らない電車に愛想をつかしたのかいなくなっている。なまえはひとりでぽつんと、鈍い光を放つ雲の隙間が少しずつ閉じていくのを完全になくなってしまうまで黙って見ていた。もう、ここがどこなのかはあまり気にしていなかった。

 もう一度空を見上げると、たった数回のまたたきの間に雲は姿を変えてしまって全く別の形を成している。このことを誰も知らないと思うと落ち着かない気分だった。

「……ちゃん、よね」

 声をかけられたことに驚いて、反射的に振り返ると女が立っていた。四十代くらいに見える。母親、なんとなくそんな感じがした。少し白髪まじりの頭で、やわらかいレモネードの薄手のブラウスとくるぶしまですっぽりと隠れるロングスカートを身につけている。すごく品の良さそうな女の人だ。あまりなまえと背丈の変わらない女は目尻の下がった形をしていて、じっとこちらを見ていた。誰だっけ。知り合いかもしれないと思って頭は自動的に考えたけれど、全く心当たりがない。それに、ずっとベンチに座っているのが暇で階段を上がってみただけだ。呼ばれた名前もわたしのじゃない。

「覚えてる?」

 女はすうっと首を傾げて不安そうな顔をした。

「違います」

 なまえははっきりと答えた。答えたけれど、女があんまりにも揺るぎなくこちらを見つめているので自分のほうが間違っているのではないと思えてきてしまう。どうしよう。女はまだ彼女が思い出すのを待っているかのような、同時に困惑したような顔で立っている。やがて、一瞬灰色の窓の景色に視線をうつろわせると何も言わずに、背を向けて階段を降りて行ってしまった。鉄の骨組みの階段がカンカンと音を響かせている。女が階段を降りきって背中が完全に見えなくなってしまうまで待って、なまえも後をつけるように階段を降りようと足をかけた。

「よぉ」

 人がいた。今度は違う男だ。血を煮詰めたような髪色をしている。仮面に隠れた顔とか長髪とか、全身真っ黒の服とかとにかく見慣れない格好をしていた。歳は、分からない。全く想像もつかない。なまえは驚いて声も出せずに目を見開いて、その場に突っ立っていた。変な雰囲気だ。明らかに浮いている、妙な男はニヒルな笑みを浮かべてひらっと片手をあげる。

「どうした、声も出ねぇのか。ペーペーがほざきやがると思っていたが……しっかしお前ほんとに変わった色だな。あいつも余計なモン拾ってきやがって」

 よく喋る。わたしはびっくりしてぱちぱち目を開けたり閉じたりしていた。よく分からないことをペラペラ話されて困惑しながら出していた左脚を引っ込める。

「気づいてるな、さっきからお前の姿が見えてる人間がいること。ここが精神世界だってこと」
「あ……」

 だから電車は来ないんだ。唐突にそう思った。なまえはついさっきまでの出来事を思い出して、理解する。男の言葉を聞いて真っ先に過ぎったのは脳裏に焼き付いたアレンの、焦ったようなたじろいだような声だった。「なまえ!」そう、わたしは彼に名前を呼ばれて気づいたらここにいたのだ。精神世界、何度繰り返して頭の中で反芻しても、馴染みがなくていまいちピンと来ない。でも、色味のないこの駅は確かに現実味がなくて静かで、わたしの心の中みたいだと思った。そうしたら急になんだか元の場所に帰りたくなってしまって落ち着かないまま、制服のスカートのポケットに突っ込んでいた手を忙しなく動かして気を紛らわすことに務めた。帰る場所なんてないのに、まぶたの裏に思い浮かぶのは、あの家なんて。動物は好きなのに何故か昔から嫌われてしまうなまえはティムに吠えられて、アレンに苦笑いをされる。そんな生活が始まったのだってつい最近の話だ。自分でも気づかないうちに、想像以上に大きくなっていた。

「かえしてください」
「お前の帰る場所はない。思い違えるなよ」
「分かってます、でも、今のわたしを置いといてくれる場所はアレンの中だけなんです。お願いします」

 気が遠くなるような長い沈黙の後、鋭い目付きが一瞬凪いでバカにしたような笑いを頬に浮かべる。これはきっと、消えるか消されるかのチキンゲームだ。この人はそれを楽しんでいるということがよく分かる。滑稽で、愚鈍で、救いようがないわたしを薄い笑みの向こうで見ている。

「まあ、せいぜい気をつけるこったな」

 でも、赦されたと思った。この馬鹿げた物語にもなりきれない話の行く末を見てみたいのだろう。一歩前に出た男からはむっとするような酒の匂いと、彼が使っているらしいデオドラント、それに女物の香水の匂いがした。男はちょっと上機嫌に鼻歌のような、ふんふんという音を鳴らしてなまえをもう一度見遣る。英語かどこかの言葉で日本語ではなかった。

 おーベイビー アイラブユー アイヘイチュー いえー ロンリーロンリー

 みたいな歌だった。





「なまえ! ああよかった! 師匠がいきなり最大レベルの結界なんて広げるから急に何かと思いましたよ」

 目をつりあげて怒るアレンが突然ぱっと現れる。音も色も空気も、全部がいっぺんに戻ってきた。安堵して胸を撫で下ろす動作に、ティムがまた大きな声で鳴き続ける。師匠、その言葉に驚いて腰を抜かしてしまう。この男が、悪名高い(となまえは勝手に思っている)彼こそがアレンの師であり養父であるのだ。いつも通りの日常に変わったものが一つ増えた、六月の下旬。みんみん鳴く蝉の声がうるさい。



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