やっとのことで食堂に辿り着くと神田がない間に人の集まる食堂は新人エクソストが入ったという話題でもちきりだったのか、捜索部隊達はキョウを一目見るなりざわめき出した。それまで楽しそうな談笑だった声が静かな囁き声に変わっていく様は大きな不安を与えた。突き刺さるような視線が痛くて団服の裾を固く握り締める。教団にとって数少ないエクソシストが増えることは喜ばしいことではあるがこうして色眼鏡で見られるのは全く喜ばしいことではない。ただでさて人前に出ると緊張して上がってしまうのに穴が開くほど見つめるのは勘弁してほしい。あの一匹狼で他人との必要以上の干渉を好まない神田の隣を頼りなさげにひょこひょこと歩いているせいか、物珍しいといった視線もつきまとう。この時ばかりは神田を巻き込んで申し訳ないと思った。ふと聞こえてきた「兄妹か?」という素朴な疑問を聞き逃さなかった神田は、こんなのと一緒にされてたまるかといった表情でその捜索部隊の方を睨みつけていた。そこまで頑なに否定されると正直心が痛むが、わたしだって神田さんと兄妹なんてまっぴらごめんだ。そういえばティエドール元帥は神田さんに剣術を学べと言っていたっけ。

「リナ、お前が会いたがってた新入りだぜ」

 神田はリナリー・リーを呼んでいた。料理長と何やら話し込んでいるようだった。キョウはたまに、自分に向けられる視線が手のかかる妹を見るような視線であるように感じる。例えばキョウがまだ神田に苦手意識を持っていた頃、なんとかコミュニケーションを取って歩み寄ろうと会話を繋ぐ彼女を射抜く視線、その鋭い双眸の奥は記憶の中の親しい誰かと重ねて見ているように柔らかかった。眠たげなキョウをじっと観察している時、ボロボロになりながらも無事に帰って来たキョウを見た時、上手く歩けないキョウを背負いながら歩いている時、その全てに普段は絶対に見せない柔らかな光が差していた。今この瞬間もキョウがリナリーと握手をしていると、ふと視線を感じる。初めて同世代の女の子と話をしたことに感動しながら視線を辿る。やはり神田であった。自分の隣で腕組をしながら料理長が作る蕎麦を待っている。本当に蕎麦が好きなんだなと思った。

「でも、すぐに退院できて良かったわね。わたし、とってもキョウに会いたかったのよ! 同世代の女の子は初めて! 困ったことがあれば何でも聞いてね」
「ありがとうリナリー、よろしくね。神田さんもありがとうございました」
「……何がだよ」
「何でもです」

 蕎麦を受け取るとさっさといなくなってしまった彼の背中に向かって、深く頭を下げる。何から何まで世話になりっぱなしだと改めて実感する。わたしはもしかしたら、この人のようになりたいのかもしれない。恐ろしくて苦手だったこの人の強さに憧れている。自覚した瞬間かもしれない。

「……あのね、早速お願いがあるんだけど」

 キョウは神田に初めて会った時の、凍てつくような目で見られるのが怖かった。ここでもそれは変わらない、役立たずだと罵られぬよう強くならなければいけない。教団内も何処と無くゆったりとした空気が流れている昼下がり、鍛錬所だけはそんな空気を微塵も感じさせてはいなかった。あるのは緊張感と少し鼻を突くの汗の臭いと覇気のある掛け声だけ。いつものキョウであれば宿の手伝いもそこそこに洗濯物を干しながらうたた寝をしていたりする時間だった。教団に来てからものんびりお昼寝なんて出来るわけもなく、体術と剣術をそれぞれの先生に習って交互に教えて貰っていた。もうかれこれ数時間は基礎から応用までを学んだはずなのだが、悲しいことに全く進歩がない。この十七年間これといった運動をしたことのないキョウは体力が無さすぎるのだ。何もかも釣り合わないという事態が発生しているが、そんな小さなことで諦めるキョウではない。

「三十分後、も、いっかい……お願いします」
「いや、でも」
「すみません、どうしてもお願いしたいんです」
「……元はリナリーの頼みだ、そこまで言うならやろう。ただこれだけは守ってくれよ、俺たちがやめた方がいいと判断したら絶対に鍛錬を中止すること。もしキョウがまだ動けても、だ」

 これ以上は見るに耐えられないといった様子の彼らにキョウは地面に額を擦りつけるようにして懇願した。先生というのは捜索部隊の方々で、食堂での一件があったがなんとか教えを乞うことに成功した極わずかなうちの人間である。キョウのような子供が自分より上の立場であることが気に食わない人も中にはいるらしい。そんなものなのだろうか、自分にはよくわからなかった。鍛錬に来ていた捜索部隊の彼らはリナリーの紹介もあり、基本を根気強く教えてくれた。

「あ、リナリー! 室長が探してたよー」
「ちょっと待ってね。今行くわ」

 向こうから自分を呼ぶジョニーに気付かないほどキョウの動きを観察するのに集中していたリナリーは返事をして立ち上がりながらもまだ視線はキョウに釘付けのままだった。それほど急用ではないのか鍛錬に励むキョウに気付いたジョニーも近くまでやって来ると、リナリーと一緒になって一つ一つの動きをじっと見ていた。

「退院したばっかりなのに頑張ってるね」
「捜索部隊とずっと組手してるんだけど、ちょっと問題があって」
「どうかしたの?」
「組手だと十分も持たないのよ」
「……あー、うーん。俺も人のこと言えないけど、それは難題かも」

 どうしたものかと悩むリナリーに、ジョニーがふと思いたって尋ねてみるが彼女は首を横に振る。それだけはだめだと頑なに拒否をするので、リナリーも強制しないことにしたのだ。彼女曰くもう返しても返しきれないほどお世話になっておりそんなことは恐れ多すぎて死んでも頼めないらしい。リナリーはそうは思わなかった、これは数日前教団を発ったマリに聞いた話だが神田はキョウの面倒を見ることをそこまで嫌がってはいなかったようだ、それにリナリー自身も今日初めて彼らを見てそう思った。そもそも神田が誰かに後ろを着いてこさせるということ自体がイレギュラーだ、ここにラビがいたらきっと驚いて口をあんぐり開けるだろうなとリナリーは想像して小さく笑う。

「それが『神田さんだけは絶対だめ!』って」
「へえ……あ、とにかく室長が呼んでるからね!」

 それだけ言い残すと走り去っていったジョニーを見送りながらリナリーも鍛錬所を出ることにした。すぐに帰ってくるとキョウに伝えると、彼女は真剣な表情で短く頷き額の汗を拭うとまた鍛錬に戻る。稽古を付けてくれるかはどうあれ、めげない立派な姿勢だけは神田も褒めるに違いない。キョウは案外負けず嫌いで頑張り屋だ、今までは神田が怖くて少し萎縮していたのかもしれないとリナリーは思った。神田のことだ、無神経な発言を連発したり心無い言葉を投げかけてキョウのような幼い小さな子を怖がらせていたのだろう。

 まず足りないのは基礎体力、これはあまりに酷すぎる。組手で相手がいくら屈強な成人男性でも、だ。手も足も出なければ十分しか持たない上にそれ以上無理に体を動かせば過呼吸になる。今まで普通の女の子だったためにエクソシストになったらいきなり強靭な肉体を手に入れることが出来るなんてそんな都合のいいことは考えていなかったが、そもそもがここまで脆いなんて全く想定外だった。スタートラインが皆より二十メートルほど後ろにある気分だ。神さまは理不尽だ、むすっとして地面に寝転がりながら上を睨みつけた。やってやる、絶対めげない。

 鍛錬を初めてから暫く経つ頃にはキョウも少しは成長を見せていた。まずは組手で段々動きは悪くなっていくものの動けるようになった、そして過呼吸を起こすことも少なくなった。リナリーも稽古を付けれくれた捜索部隊のみんなも自分のことのように喜んでくれた。たった一グラムほどの進歩かもしれないが一応基礎は身に付いた、と思いたい。全身筋肉痛になることにも慣れてきたこの頃、リナリーにアドバイスをもらい手当を受けながら休憩していると、キョウのゴーレムが鳴り出した。初任務の呼び出しに緊張する。リナリーにお礼を言うと室長室までの道を急いだ。キョウは最近科学班からゴーレムを受け取ったばかりだった。

 相変わらず書類が散らかり放題で足の踏み場がない部屋に入る。仏頂面で腕組をしている神田と対面することになった。距離を置くようにしてコムイの近くに寄ると、予想通り任務の内容とそれに関する資料などを渡された。キョウはマントも一緒に受け取った。初任務の場所はイタリア、芸術の街フィレンツェで最近アクマが大量発生しているらしい。古代ローマ、花の女神フローラの町としてフロンティアと名付けられたとされていることが源語とされている。周辺国ではフィレンツェのことを英語でフローレンス、ドイツ語でフロレンシアと呼んだりもする。そのことをコムイに何の気なしに問うと神田に嫌味っぽく「急に饒舌になりやがって」と言われた。

「ごめんねキョウちゃん、神田くんちょっとお勉強は苦手で。多分蕎麦のことをずっと考えてきたからだと思うんだけど」
「ああ、神田さんお蕎麦好きですし! でもその気持ちちょっと分かります」
「テメェは余計なことばっかり言いやがってシスコンが! お前も真に受けんな!」

 コムイさんと納得し合っていると神田が怒鳴ってこの場の収拾をつけた。しかしルネサンス時代の傑作と言われる歴史的建物の多い美しい街で無粋なアクマがいるのは頂けない。フローラも嘆くことだろう。

「今のところイノセンスの反応はないけど、アクマが大量発生してるのには何かあるのかもしれない。とにかく君たちに原因を突き止めてほしいんだ」
「でも、フィレンツェは大きな街ですよね。伯爵……だっけ、その人は暗躍してるのに、少し目立ちませんか?」
「そうだね、もしかしたら伯爵が動き出したのかもしれない」

 思慮深いキョウに一瞥を投げた神田は再び資料に視線を戻す。「機械」、「魂」、「悲劇」を材料に造り出される悲しき悪性兵器「AKUMA」の製造者で、世界終焉への計画を進める千年伯爵という人物がいると知ったのはつい最近。自分達の知らないところで世界規模の戦争が行われていることも、その戦争に人類を救う為自分が参加することになったというのも未だに信じられない。でも信じて受け入れなければならない、自分たちが守れる生命があるのだ。それをひとつも犠牲にしてはいけないという自覚がキョウにはあった。不安で堪らなくて誰かにずっと縋っていたい気持ちがないと言えば嘘になるが、歩いた道を引き返すことは出来ない、今しかない。家族、捜索部隊やリナリー、科学班のみんな、元帥やマリやデイシャ、そして神田もキョウは守りたかった。身の程知らずで傲慢だというのは重々承知だが、彼女が帰りたいと弱音を吐かない理由はこれだった。

「あ、そうだ。帰りにラビも拾ってあげてね」
「は? じーさんはどうしたんだよ」
「そのはずだったんだけど、ブックマンとはぐれたらしいんだ。トスカーナにいるからよろしくね!」
「……チッ、忘れてなかったらな」
「なんかトラブっててひとりじゃ動けないらしいんだよね、電話した時号泣だったし」
「あ? どうせ嘘泣きだろ。おい、さっさと行くぞ」
「はいっ」

 忘れてたら置いてくんですかとツッコミたくなったがそれを心の中に留めておいて、さっそく大きなマントを被ると今回一緒に任務に行く捜索部隊に小舟を漕いでもらう。薄暗い水路の水面はとろんとした黒い光が浮かんでいるだけで少しも波立とうとはしない。押し進められる櫂とそれによってゆっくり進む小舟が粘りつくような水面を進んでいた。
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