母屋の玄関を蹴破るのは不躾だとは思ったが急用である、年相応な可愛らしい雑貨が並べられた部屋に入り込むとベッドに寝かせて応急処置をしてやる。彼女らしくもなく余程暴れたのか、小さく白い体にいくつも痛々しい傷を作っていた。不器用にも最善を尽くし頭部に包帯を巻いた時、おもむろに視線を移して言葉を失った。パックリ裂けた頬の傷が塞がっているように見えた。実際、爛れた患部に触れることは出来なかったがそう見えたのだ。ありえない。さっきからありえない事ばかり起きている。破れて剥き出しになった細い肩を掴み、自分と同じような梵字が左胸にないかと探したがそれらしいものは見当たらない。今の段階では傷口を確認することもできない、べっとり付着したままの血がおぞましかった。華奢な彼女の体は鎖骨までスラリと線が伸びていたが、胸に辿り着いた途端やわらかな曲線を描いていた。ややあって自分が何をしているのかを理解した神田はバツが悪そうに顔を背ける。この場に誰もいなかったことに心底感謝した。

 朝日が瞼の奥を突き刺すように照らしたせいでキョウは目覚めた。随分と長く眠っていた感覚があり、体が全く思い通りに動かない。それどころか全身に何か重いもので殴られたような鈍い痛みすらある。いつもなら二度寝をするために寝返りを打ったりするのだが、ほんの少し体を捻ろうとしてあまりの痛みに情けない悲鳴をあげた。

「ぅ……いた、あいたたた!」
「テメェ二日も寝やがって」
「ふつ、か? ぎゃっ! か、かか……神田さ、ん」

 勢いよく起き上がって目の前の人物に目を丸くしていると数秒後に遅れて激痛がやってきた。思い出したように全身が痛みついでに頭もグワングワンと自分の声が響いて痛くなった。おかしい、これはおかしい。涙目になりながら自分の体に視線を落とすと、服は何故か破れたりして薄汚くなっていたし、所々赤黒くなって染み付いた血らしきものが付着していた。その上体中に包帯が巻かれているのだからますますわけが解らない。何せキョウには眠っていたらしい二日間の記憶が全くないのだ。空白の時間に一体何があったのだろうか、と彼女が混乱するのも仕方がないだろうと神田は静かに様子を伺っていた。顔の傷は完璧に消えている。剣の適合者であったにも関わらず元帥のポシェットが光らなかったり怪我が治ったりと彼女には不可解な点が多すぎる。妙だ。それなのにそんなことは全く感じさせないような屈託のない笑顔でこいつは笑う。

「あの、神田さん」
「何だ」
「なんでわたしはこんなに重傷を負っているんでしょうか。そもそも記憶がないんですけど」
「どこまで覚えてる」
「えっと、襲撃で床が抜けて落ちた所まで?」

 その後のことは、本当に何一つ覚えていない。覚えているのは懐かしいような、長い夢だけ。今の自身を見る限り、何かとてもとんでもないことをしでかしたようだが誰かが頭の中の引き出しを勝手に整理してしまったかのように、大部分のことが朧気でぼやけている。これ以上思い出そうとしても余計頭が痛くなるだけなので、黙って何から聞かせようと悩んでいるような表情の神田を待つことにした。

「お前はエクソシストだ、その剣で戦って俺達と一緒に旅をする、覚悟しとけ」

 まあ、結論から言うとこうなる。教団について掻い摘んでの説明を受けて神田がすべて話し終えた時、キョウは何も彼も信じられなかった。否、信じたくなかったのかもしれない。責めるわけでも脅すわけでもない、ただ真っ直ぐに自分を見つめる神田の双眸に捕えられた時、この運命を受け入れなければならないのだと直感した。記憶が無くともベッドの脇に置かれたあの剣を見て、何故か全てわかったような気持ちになる。

「さっさと着替えて行くぞ、二日後にはここを出る」
「え、あ、はい! ……はい!? 二日後ですか?」
「何度も言わせんな」
「……はい」

 覚悟しろとは言われたけれど流石に心の整理がつかないと思いながら溜息をついてベッドから降りると、立った瞬間にがっくり膝が折れて顔面を強打した。想定外、というか自分の体のことをすっかり忘れていた。予想以上に痛い。今の自分の体は意思通りに動いてくれないのだ、これでは作業も手伝えないかもしれないとぼんやり考えていたが目の前に神田がいたことを思い出してふと我に返る。痛いし恥ずかしいし、正直死んでしまいたい。あまりの痛さに耐えきれず珍しいことに、自分の意志とは関係なく涙が零れる。視界が歪んで目を開けられないでいると、ふいに体が宙に浮いてベッドに放り投げられた。

「……いひゃい、です」

 鼻を押さえながらふがふがと喋ると笑われる。穴があるのならもうそこで一生暮らしたいとさえ思った。ああそういえば大浴場の温泉が湧き出ている穴がある、そこにでも入ろうかな。改めて辺りを見回しこの部屋に神田は不釣り合いすぎるなと失礼なことを考える、女の子の部屋に真っ黒なコートを纏った大男がいるのはシュールな光景だった。

「テメェ、今余計なこと――」
「ま、まさか!」
「……」

 ふふ、とこっそり笑っていると心の中を読まれてしまう。彼はエスパーかなにかなのだろうか、これから隣で考え事をするのはやめようと思った。ギロリとキョウを睨んでいた瞳が急に何かを思い出したようにすうっと細められてどきりとした。驚いて心臓が跳ね上がる。なんだかむずむずした。

 神田を締め出し、着替え終わると担がれてパニックになる。キョウは振り回されてばかりだ。意識が戻り元気だということを告げるため宿の方へ向かったが何故俵担ぎなのかが解せなかった。

「あのう、神田さん」
「なんだよ」
「どうして俵担ぎなんでしょう、米俵じゃないんですけど……」
「るせ、つーか重いんだよお前。もっと痩せろ」
「ひ、ひどい……」

 今回の騒動に責任を感じていたキョウは宿の復旧作業や村の患者たちの看病を積極的に行っていた。ティエドールやマリに手伝うことはいいことだが、責任を感じることは無いと諭されても目を伏せて首を振るだけだった。自分のせいで自然災害が耐えず農作物も不作になり、その上村の若者たちが謎の病に次々と倒れたら負い目を感じるのも無理はないと神田は思った。そのことを思ったまま口に出せばキョウに泣かれ、デイシャとマリに足を踏まれた。全くわけがわからない。

「バカ、空気読めって」
「あ?」
「諦めろデイシャ、何を言っても無駄だ」
「だからなんだよ?」
「あー、もういい。ほら、まだ作業残ってんじゃん」

 頭が痛いぜやれやれ、というふうにため息をついたデイシャはさっさと向こうの作業を手伝いにいなくなる。そんな彼らの手伝いもあってか復旧作業にそれほど時間はかからなかった。元々小さい村であり、被害を受けたのが宿と近くの民家だけだったこともありエクソシストと残っている老人以外の村人で人手不足になることはなかった。不安定で異常気象続きだった天気は回復し、病院の医者がいうには患者たちの熱は徐々に下がり始めているらしい。それを聞いてキョウは酷く安堵した。本当に良かったと思いながら自室で荷物をまとめる。これからは黒の教団の本部というところに住むらしい、そこには様々な国籍を持つ人がいるようだ。家族に見送られ、愛に感動しているティエドール元帥は泣いていた。部隊のみんなは呆れ眼だった。やっとのことで歩けるようになった頃、生まれたての子鹿さながらの動きで足を震わせていると神田が振り返った。いつもとは違う、怒っているような雰囲気である。キョウはさっと身構える。

「……もういいのかよ」

 言葉の意味を理解するのに時間がかかった、一瞬戸惑いすぐに頭の中で何かがぱっと一致する既に村のはずれまで来てしまったのに、そんな今更と正直思った。しかしそれが彼の精一杯の気遣いだと知っていたし、機嫌を損ねたくはなかったので慎重に言葉を選んだ。

「いいんです、挨拶は家族だけで。わたしのせいだって知ったら、厄介払いが出来たって思われちゃう」

 あの剣の真の所有者はまさにキョウだったのだ。剣が抜けたあの瞬間から、剣がキョウの物になった瞬間から、謎の奇病は治りウェールズの気候も元に戻った。村人達にいくらイノセンスが引き起こしていた現象だから仕方がないのだと説明しても結局元凶はキョウじゃないかと言われることを知っていた。もう二度とこの村に戻ってこないでくれと言われるのが怖い。何処か遠くに旅に出たと思われる方がよっぽどいい。

「それに、帰る場所無くなっちゃうんです」

 へらりと笑うキョウに神田は理解に苦しむというような表情を浮かべた。そりゃあ情の欠片もなさそうな人にはわからないかもしれないと思い、どんな言葉で説明すればいいのだろうと困っていると予想外の言葉に今度は目を丸くする。

「ヘラヘラ笑ってんじゃねーよ、普通泣くってのはこういう時だろうが」
「……はあ」

 それはきっと、今まさにこの瞬間のことなのだが何かの糸がぷつりと切れて泣き出すとか、また弱い所を見せてしまうとか以前の問題で、拍子抜けした。ついでに腰も抜けて膝からがっくり崩れ落ちた。なんということだろう、神田さんはちゃんと人間だった。感動的なシーンでとんでもなく失礼なことを考えているキョウに神田は全く気付く素振りを見せない。それどころかかえって満更でもない表情をしているようにも見えた。地面に膝をついたまま唖然としていると神田は痺れを切らし、強引に腕を掴むと再び彼女を担いだ。しかし今度は米俵同様の扱いではなく、しっかりと背負っている。

「自分で歩けます! 降ろしてください!」
「暴れんな。歩くの遅ェんだよ、置いてくぞ」

 まさか神田の口からあんな言葉が出るなんて。中々来ない二人を見兼ねて来た道を引き返してみるとさっきのような会話があった、ティエドールは神田が彼女を気に入っているのかもしれないと思った。神田には似たような年の幼馴染みがいる。幼い頃の彼女、もしくは昔の友達に重ねて見ているのではないだろうか。

「……見た?」
「ああ、驚いたな」
「何だかんだ言ってっけどさぁ、この先も大丈夫そうじゃん?」
「そうだねえ」

 神田に背負われながら汽車に乗るのは駅に着くまでが最悪だった。ティエドール元帥には兄妹に見えるから大丈夫だよと言われ寧ろ落ち込み、デイシャには何度か自力で歩こうとしては転けるのを笑われた。その度に神田が手を掴んでくれたので助かった。駅で汽車を待っている間に黒の教団についてや、仕事のことについて今朝神田が話したよりも詳しく聞いていると世界の為に戦うとか、この前の化け物は殺戮兵器なのだと言われて本当に自分に務まるのか不安になるばかりだった。知らない世界。今まで自分がのうのうと生きていた世界とは全く違う、見たことも聞いたことも無い世界だ。知らなかった、何も。自分たちが、皆が生活している中でたくさんの人が血と涙を流して戦っていたこと、世界を守るための聖戦があったこと。もう後戻りは出来ないのだと思うと少し怖い、これからは常に死と隣り合わせになるわけで、二度とここに来ることも無いのかもしれない、自分が飛び込んだのはそういう世界なのだ。

「修行を終えて、一人前になったらお母さん達に元気な姿を見せてあげるといい」
「はい」

 頑張りたいな、というキョウの言葉に誰かが鼻を鳴らす。その張本人は能天気が増えたと言わんばかりの表情で腕組みをしていた。
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