やがて食堂も閉まりしばらくは各々が談話室で寛いでいたが、先に寝ることにしたティエドールが部屋に戻り、長時間の入浴をすっかり気に入ってしまったマリが風呂場に行き、ティエドールに続いてデイシャが部屋に戻った。談話室に残ったのはキョウと神田だけになった。未だに雨が振り続ける窓の外を見つめながら眠たげな彼女に神田は声をかける。

「眠いなら寝ろよ」
「……ん、起きてます。だって神田さんが寝ないと消灯出来ません」

 少し不機嫌そうに頬を膨らませたキョウが目を擦りながら起き上がり時計を見上げた。和風の造りになっているこの宿には似合わないアンティーク調の針は十一時を指している。日付けが変わる頃にはまたあの低い地響きのように鐘が鳴るのだろうか、今部屋に戻っても鬱陶しい元帥が教団に戻った気分になって忌々しい呼び方をするような気がしてならないと思い足を組み直すと、再び繰り返して言った。

「そう言えばわたし、神田さんのファーストネーム聞いたことないんですけど」
「絶対教えねぇ」
「なんでですかぁ!」

 諦めの悪い彼女に神田は痺れを切らし談話室から摘みだそうと立ち上がる。しかし珍しく譲らなかった。

「いいから寝ろっつってんだろ、泣き虫」
「あの時はほんとに怖かったんです!」
「大体雷くらいでビビってんじゃねーよ」
「…………ぐすっ」

 まさか、そのまさかである。ぎょっとして神田が振り返るも時すでに遅し。大きな瞳に真珠のような大粒の涙をいっぱい溜めていたキョウが瞬きしたのと同時に粒が弾け、はらりと頬を伝った。外の雨は思い出したように激しく降り出す。まるで彼女の悲しみを表しているかのようだと柄にもなく神田は思った。今のは悪かったと謝り、優しい言葉をかけてやるという簡単なことが不器用な神田にとってどんな任務よりもハードルが高い。言葉に詰まる神田にキョウが涙を流し続けていると、ゆっくりと音も無く談話室の扉が開いた。状況が飲み込めない彼女は鼻をすすっていたが、神田は聞き覚えのあるノイズ混じりのその声にいち早く反応して六幻を発動させる。余程腹を空かせていたのかエクソシストを見つけて興奮しているらしい、まだ転換しきらない皮のまま涎を垂らしている。

「下がってろ」

 はっと息を呑む音が聞こえ、彼女の喉から漏れそうになった悲鳴を神田は振り返りもせずに手で覆うと簡単に収めてしまう。後ろへ追いやりながら六幻を構えた。ドドドドドッ、と一斉にアクマの弾丸が放たれる、至近距離にも関わらず攻撃は外れ足元のフローリングが蜂の巣のようになっていた。素早く思考を巡らせている間にメリメリと床が嫌な音を立て、ついにバキリと割れると丁度キョウの立っている場所だけ底が抜け、一瞬にして姿が見えなくなった。

「か、んださ……!」

 耳の良いマリが風呂から上がりいち早く駆け付け、ティエドールとデイシャも部屋からおりてくる。

「神田、キョウちゃんはどこだい?」
「下だ……生きてりゃいいが……」
「デイシャと神田はあの子のお婆さんを避難させなさい。マリは私と行こう」

 デイシャと並び母屋へ向かいながら神田はキョウの安否を確認出来ないことにイライラして舌打ちをした。普段他人を守って行動することがないのでそこまで気を配ることが出来なかった。周りのことを置き去りにしていた、あいつは捜索部隊のように自分で身を守る術を知らないのに。自分のミスだ。自分の落ち度で民間人を危険に晒したことに落ち着いていられなかった。一抹の不安を感じながら母親達を起こして外に避難させるとデイシャに護衛を頼んで宿へと戻っていった。何故気付けなかった、あのアクマはさっき雨宿りのために食堂にいた奴だ。しばらくアクマが音沙汰なかったことに気を抜いていた自分に、どうしようもなく腹が立つ。



 数分前までデイシャの話を聞いていてティエドールに美しい絵を見せてもらって感激した、マリとも語り合っていて、デイシャのリフティングを見ていて、それで。みんな部屋に上がって自分と神田だけが静かな談話室に残っていた。よし、ここまでは明瞭に思い出せる。朦朧とした意識の中で必死に何かへ手を伸ばしながら思考を巡らせていた。少しでも気を抜いたらきっともう二度と醒めない眠りについてしまうことになる。勘弁してほしい、まだ戸締りと消灯が出来ていないのに。ちゃんと管理をしなければ。明日の朝の仕込みや準備が出来なくて大目玉をくらってしまう。お客さんに迷惑をかけることになる、お客さん、そこに行き着くとキョウの中で小さな豆電球が灯った。和気あいあいとして語らう中にいた旅行用マントを纏った男、あれが片言の言葉を喋る化け物だった。衝撃だった。恐ろしい顔をしていた、あれは神田さんよりもずっと怖い。そういえば静かな夜の雨の中に騒音が轟いた、弾丸のようなものが飛び出してきて自分が立っていた場所の足場が崩れて落ちたのが数秒程前のことだ。分からない、数分前だったかもしれない。煙に巻かれた薄暗い場所、ここは何処だろうか、一階に落ちたと思っていたが外のようだ。雨の匂いがする、もう目を開く気力もないので確認する術もないが恐らく、頬を濡らしているのは裏庭の雨に濡れた芝生だった。瓦礫と共に落ちると地面にガツンと頭をぶつけて目の前が急にチカチカと点滅しだした、壊れかけのテレビのように世界が継ぎ接ぎに映った。視界の端に何か動いているがそれが何なのかも判別出来ないほど意識が波引いていくのが何となくわかる。まだ駄目でしょうと踏ん張ったつもりだったが終わりは呆気ないものだ。死ぬのはこわい。痛いのも怖いのも嫌いだ、死ぬにしろ殺されるにしろ出来るだけ化け物には存在を気づかれたくなかった、いつもより早い鼓動に耳をすませる。あと数回しか繰り返すことのできないであろう心臓が、一生分を脈打ってしまおうと躍起になって早鐘を打っているのだ。浅い呼吸を繰り返しながらシャッターを切ったように降りてきた黒い幕に抗おうとする。映画のフィルムがからから流れ出す、これが走馬灯ってやつなのだろうか。夢か走馬灯か区別がつかないまま目を開いた。視力が生きていて機能しているとは思わなかった。まだ生きているらしい。何が起こっていたのか思い出すのにそう時間はかからなかった。記憶の糸を手繰り寄せるようにしてズキリと痛む頭を起こすと、一番最初に浮かんだのは神田のことだった。みんなは無事だろうか、母や祖母は?時間が跳躍したみたいに意識が明瞭になり、覚醒した時には前置きもなく状況が次の段階に移っていた。自分だけ置いて行かれている気分になり慌てて駆け出そうとするがそのまま地面に倒れ、再び、瓦礫と共に倒れ込んだ。行かなきゃだめなのに、閉じようとする瞼に悪態をつきながら縋るように掴んでいた意識の糸を手放す。これだけ傷だらけになったのは生まれて初めてで、死んでしまうと思っていたが人間は案外丈夫に出来ているらしい。もしかしたら意地悪な神さまが中々死なせてくれないのかもしれない。土煙がゆったりと晴れ、次第に視界がはっきりとしてきた。朧気に浮かび上がったのはあの剣、痛む体をなんとか起こして荒々しい岩肌の側まで近寄る。まるで自分を待っていたみたいだ、我ながら奇妙な考えだと思ってはいたが村の若者たちがあれだけ苦労しても抜けなかった剣が、若者たちが触れた途端に病にかかった剣が自分の力で容易く抜けた時に確信した。鋼のように硬く、澄んだあの独特の冷たい音が静かな裏庭に響き渡る。剣は驚く程自分の手に馴染んだし、酷く懐かしく思えた。生まれてこのかた剣など触ったこともないはずなのに使い方はわかる。待っていたかのように飛び出してきた化け物を見ても、もう足はすくまなかったし、頭は冴えていた。たった一振りで化け物を斬りながら表玄関の方へ来ると向こうに神田や母と祖母の姿も見えて安堵した。良かった、みんな無事だった。

「ただいま!」

 傷だらけの四肢を引きずりながら力なくへらりと笑った少女を目にした時、彼らは何を思ったのか。剣を納め母親に駆け寄る彼女が背負った業に神田は目を伏せた。裏庭の方から物凄い崩壊音がしたかと思えば元帥の腰元のポシェットが目が眩むほどに光りだしていた。崩落に巻き込まれて落ちたと思われるキョウと裏庭にある剣、光りだした元帥のポシェットと条件が揃えば思い当たるのはひとつしかない。あいつがあの剣の適合者だ。今更だと元帥を睨むと一通りアクマを倒し終えたのか、対アクマ武器の発動を解除しながら考え込むような顔をしていた。

「元帥のが光出したってことはキョウがあの剣の適合者じゃん?」
「しかし師匠、今更……」
「君たちはここで待っていなさい。私があの子の所へ行こう」

 同じことを疑問に思ったらしいマリが何か言いかけたが、ティエドールが手を上げて制すと母親に短く教団のことを話して彼女を探しに歩き出す。元帥が数歩も歩かない内に地面を揺るがすような爆発音が響き、眩しい閃光が走った。一瞬見えた影は確かに卵型のアクマを縁取っていたのだ。まさか。神田の予想は的中で、土煙の中から現れたのは紛れもなく、正真正銘キョウだった。爆風に背中を押されながら危なっかしげにふらりと歩く彼女が顔を上げる、目が合った。一瞬世界から音が消えたように思う。土煙が止まったように思えた。ゆら、と顔を上げたその瞳は到底信じられない鋭さを孕んでいた。温厚なキョウからは想像することが出来ない。こめかみの辺りから血を流している。てらてらと光るそれは頬を伝い、まるで涙のように見えた。もしかすると彼女は泣いているのかもしれない。一目見て、傾きかかっていた気持ちが段々とバランスを取り戻していくのを感じた。駆けていく元帥の背中を見つめ、神田は彼女が無事だったことに安心していることに気付いた。泣き虫でドジで何も出来ないあいつがエクソシストなんて出来るか、それにまだ彼女は幼すぎるではないか。そこまで考えてそこまで同い年だったことを思い出す、そうだった、自分には彼女よりひとつ下の幼馴染みがいるのにどうしてかあれは駄目だと思ったのだ。それは彼女が未熟で幼い容姿をしているからだろうか。絶対に誰かに守られていなければならない、そんな気がした。安心感を覚えた次はどうしようもない不安に駆られた、神田はティエドールに支えられながら歩く今にも倒れそうな彼女を手伝うために近寄る。

「キョウちゃん、聞こえるかい? 君はエクソシストだ。これから君はこの村を出て、私達と一緒に世界のために戦うんだ」
「エクソ、シスト……」
「そう。アクマのことは知っているね、お母さん達には話をしたよ」

 いつの間にか発動が解除され、ただの鋼となった剣を慣れた手つきで納めながらキョウはうわ言のように繰り返す。果たして内容はしっかりと伝わっているのだろうか。もう立っているのも難しいのではないかと思いながら、神田は彼女を抱き上げると母屋の方へ運ぶために元帥と反対方向に歩き出した。キョウが神田に抱きかかえられていると気付いた途端、さっきまでの鬼気迫る表情は消え、真っ青になっていたのでそんなに元気なら歩かせようかとさえ思ったが、アホ面でふにゃりと笑う彼女を見た時やっと元に戻ったと思った。妙に安心した。
/

×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -