泣き叫ぶような八重の絶叫が並盛に轟いていた。もういっそ意識を手放してしまったほうが楽なのではないかと錯覚するほどの、想像を絶する恐怖に少年はますます笑みを深くし、さらにスピードをあげる。正気じゃない、人の嫌がることをするとかそんなレベルではない。突然現れて誘拐まがいのことをされ、素性も何も知らないが完全に人格が破綻しているとんでもない人間であることは間違いなかった。ぐんと反動のついた加速とともに八重の悲鳴も比例する。

「サイコーだっただろ」
「最悪の間違いです」
「お前まだ泣いてたのかよ」
「……あなたのせいで電車乗り遅れました」
「王子知らね」
「サイテー」

 いちいち泣くなよダッセーな、と馬鹿にしたように笑う少年――ベルを睨みつけるとさっきと同じように口角を吊り上げてニンマリしていた。久しぶりに地上に降りた時には世間はもうお昼時で、遅刻もいいところだ。どうせ遅れるならと半分開き直った八重は頭の後ろで腕を組んで知らんぷりを決め込むベルに責任を取ってくださいという視線を送る。勿論その先で視線が交わることはない。ベルにはきっとあの恐怖は分からない、どう考えても異端である人間に一般人の思考を理解して欲しいとは思わないが面白半分でそれに巻き込むことだけは勘弁して欲しい。

「巻き込んどいてその態度ですか」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「あれ」
「あ?」

 ふと目に入ったのは公園の近くにとまっているクレープ屋の車だった。次の電車まで時間があるし丁度お腹もすいてきたのでクレープが食べたいと思ったのだ。甘いものは大好きだった。八重が指さした先をベルの視線が辿る。

「お詫びにあれ買ってください」
「お前チョロいだろ」
「そんなことないです!」
「……仕方ねーな」
「わーい」

 嫌味を言われたが、拒否されなかったことをいいことに浮き足立って向こうへ駆けていく。途端に元気になった八重を見てベルは青筋を立てていた。現金なやつで悪かったな。追い付いたベルは八重の肩越しにメニューを覗き込む。どれを見ても不思議そうな顔をしている、どうやらクレープを食べたことがないらしかった。

「……」
「なにとなにで迷ってんの」
「いちごとチョコです。どっちも捨てがたい……!」

 悩ましげな表情を浮かべる八重に、ベルは女はどうして皆胸焼けするように甘いものが好きなのかと訝しげな顔をしていた。

「オネーサン、今言ったやつちょーだい」
「えっ」

 八重の反抗も虚しくクレープ屋のお姉さんには爽やかな笑顔を向けられ、目の前には出来たてのクレープがふたつ並んでしまう。外国人はこういうことをサラッとやってしまうのだと聞いたことがあったが嘘ではなかった。素直にお礼を述べたのにガン無視だった。ひどい。だけどクレープは美味しい。隣からひょいと顔を出して八重のいちごの乗ったほうを(結構大きめの)一口で食べていったベルは安っぽいとかマズイとか散々文句を言っていた。彼は一体どれだけ美味しいものを食べているのだろう、よほど舌が肥えているらしくこういう一般庶民の食べ物は口に合わないらしかった。じゃあ普段何を食べているんですかと聞けば大体肉だと返ってきて怖かった。毎日お肉を食べるなんてどこの富豪だろうか。

 この人は変だ。絶対に変だ。突然ぱっと現れたかと思えば、嵐のように全てを掻き回してしまった。ふざけたトリックスターなのかと思えば口をへの字にして神妙な顔をするし、思考は読めない。犯罪だって日常茶飯事らしい。恐ろしく狂っていて全く理解できない。

「……アホ面」
「わ、わたしが!?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「あっ! またわたしの勝手に食べた!」
「いいだろ別に、買ったのオレだし」
「さっきまずいとか文句言ってたじゃないですか!」
「うっせ、チョコはいけるんだよ」
「はぁ……」

 今もこうやって勝手に人が口をつけたものを食べる。買ってくれたのはベルなので文句も何も言えなかった。

「ナニ」
「いや、別に」
「言えよ」
「……いいんですか」
「だから何が」

 しびれを切らしたベルは白いブーツの踵を鳴らす。気の短い彼をこれ以上待たせると胸倉を掴まれかねないので口ごもるのをやめる。容赦のない人なので命だけは簡単に失いたくなかった。

「だってそれ食べかけです」
「あ? ワリ」

 自分でも顔が熱くなって耳まで赤くなるのが分かった。こういう時、勝手に赤面するのはやめてほしかった。日本人はとってもピュアなのだ。全く気にする様子のない本人は茹でられたように赤くなる八重を指さしてゲラゲラ笑っていた。

「クソガキ」
「奥ゆかしいって言ってください」

 外国人は気にしないのかと考えながら携帯の時間を確認すると、丁度電車が来る頃だった。じゃあ行きます、ありがとうございましたと頭を下げて背を向ける。命を救われたのか危険に晒されたのか分からなかったけれど感謝の意を述べる。ベルは頭の後ろで手を組んで黙っていた。すぐ近くの駅まで歩いて階段を登っていると、真新しいローファーが脱げて階段を転げ落ちていく。ぴかぴかの靴が汚れるのはちょっと嫌だな。そういえば買ったばかりですこしサイズが大きかったことを思い出し、諦めて登った階段をまた降りることにした。

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