流水のようにしなやかな黒髪が束になって肩から滑り落ちた。ぶちんと根毛から毛が引かれる感覚に目を見開く。髪が切れた。八重の長かった髪がばっさりと切れている。唖然としていると、漸く顔の横にナイフのような刃物が突き刺さっていることに気付いた。これは、なんだろう。一体何が起こっているというのだ。恐る恐る首を横に向ける。きっと、0.01ミリでもズレていたら確実に八重の頬は鋭利なナイフによってぱっくりと切り裂かれていただろう。それだけは確かだった。刃物が飛んできた方向に視線をやって青ざめる。腰が抜けてずるずると壁にもたれて膝から崩れ落ちていった。はくはくと酸素を求める魚のように口を開閉させて、音になって漏れたのは喃語のような声。それでも何かしら行動しなければならないとなんとか絞り出した声だった。

「なに? 悪いけど取り込み中」
「ひいっ」
「……メンドクセー」

 頭から冷水を浴びせられたようにして動けないでいる八重は鞭打って自身を奮い立たせる。外は危なくて危険だった、なんだってわたしがこんな目に。そんなことを思っても後の祭り。殺される、この人に殺される。なのにこの肢体は迫り来る死への恐怖に、痙攣を起こしたように震えている。動けない。振り向いた金髪の少年と彼を取り囲むように包囲する大人たちを見て背筋が凍る。手には恐らく本物の銃が構えられている。身を守る術は教えられたけれど、まさかこんな思いをする日が来るなんて。呼吸が浅くなって目眩がした。手に爪がくい込んでいく。

 自ら己の首を締めていく愚かな彼女を少年は黙って見ていた。目の前の標的よりも今はこの新しい獲物に興味をそそられたらしく、何やら品定めしている。するりと細い手が伸びて、あまりの恐怖に涙が出た。ひゅうひゅうと虫の息を繰り返しているうちにむんずと頬を掴まれる。ここで人生終わりなんてあんまりだ、祖父の悲しむ顔は見たくないのに。視界がゆっくり閉じられて、真っ暗になる。映画が始まる前に照明が落とされるのによく似ていた。八重は沈んでいく意識の中でこんな映画があったらストーリーがあまりにお粗末だなと思った、あっけなく殺されてしまっては観客もがっかりだ。きっと、お金を返してくれって怒るだろうな。そんな酷い話は誰も見たがらないよね。




「おーい生きてんの?」
「……」
「死体抱えてるワケじゃねーよな」
「い、いきてる、生きてます!」
「なんだ喋れんじゃん」

 オカマじゃねーんだし死体ならいらねー、なんて呟いて造作もなく八重を放り投げようとしたので、慌てて声を絞り出す。声が裏返ったけれど、今はそんなこと気にしていられない。不思議なことに、生殺与奪の権利は彼に握られているものの生きていた。知らない人間の腕の中で視覚を奪われるという状況下ではとても正気ではいられない。元々豊富でないボキャブラリーが今やすっぽり抜け落ちてしまっている。何も見えない。半泣きになりながらしがみつくので精一杯だというのに、あろうことか彼は硬直状態の八重をガクガクと揺さぶった。それすら楽しんでいるようである。なんでこうなったんだろう。今日は普通の平日で本当ならもうとっくに授業を受けていたはずなのに。裏路地なんて通るんじゃなかった、自分の不運さを呪いたい。なんの前触れもなしに彼は急降下し始める。危うく舌を噛むところだった。三半規管が弱いのか、唇を噛み締めていても情けない悲鳴が漏れた。「うるせーオンナ」と少年は呟く。そりゃあ誰だってこうなるだろう。

「逃がすな! 殺せ!」
「ガキが調子のりやがって……!」

 ひゅんひゅんと風を切る音に混じってさっきの男たちの声が聞こえた。視覚を奪われているせいか聴覚や触覚は研ぎ澄まされていた。風の音、彼が時折愉快気に漏らす笑い声や心臓の音、ちいさな息遣い、コンクリートを走る車の音、男たちの怒声、全てが明瞭に飛び込んでくる。

「じゃあな」

 すとんと軽い着地の音がして体は重力に逆らうことなく下へ落ちた。八重はすこしの衝撃に備えて少年の腕をしっかり掴む。言葉の意図が分からず、目を開けようとしたところで今度は耳を塞がれる。ぴたりと少年の薄くてほっそりとした胸板に頭を押し付けられ、そのまま腕で覆い隠すように抱き込まれる。彼の心臓はどくどく激しく脈打っている。

「あの」
「今回も呆気なかったな」
「もういいですか?」
「重いからさっさと降りろ」
「……な、なんてことを」

 静まり返った場に不気味さを覚えると何でもなかったかのように少年は再びありえないスピードで上へ飛ぶ。降ろしてくれるんじゃないんだ。この状況も少年の意図も分からないまま八重はただ腕に抱かれていた、それも束の間。

「いっ、……」

 久しぶりの色彩を持った世界は眩しくて思わず顔を顰めた、何度目かの瞬きで全ての状況を理解して意識が飛びそうになる。ビルの上を縫うように駆け抜けている、それもありえない高さを。断末魔のような叫び声が後に続き、八重を抱えている少年は大袈裟に堪らないといった顔で耳を塞ぐ仕草をした。

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