人は生涯に何回この美しい花を見ることが出来るのだろう。わたしは嫌いだったさくらを少しだけ好きになり始めていた、元は春になると町を彩るこの色が大好きだったのだ。あと三十回くらい見たいな。ううん、欲を言えばおばあちゃんになっても見たい、しわくちゃになった手でわたしはきっとさくらの花びらを愛しそうに包み込む。死に際に見れたら最高だなと思った。夜桜を見上げる人の並をかきわけながら、息を切らして走っていく。怪我をした足が痛むことを思い出すのは二の次だった。疲れて一度立ち止まって、漸く自分の足がじんじんと痛むことを知覚する。立ち止まったけれど当然のように足はまた動き出す。八重の中に衝動的に突き動かす何かがあった。両足が何のためにあるのかを生まれて初めて理解する、決して柔らかくはないこの足は、愛しい人の元へ飛んでいくため丈夫に出来ている。きっともう、今夜しかない。これでほんとうに最期だと思った。まだ何も言わないでいるうちに、あまりに大きな感情に耐えられなくなった八重の脆弱な精神は弱音を吐いた。じんわりと世界が滲んで呼吸が苦しくなる、突然水中に沈められたような心地がした。薄桃色がぼやけて、暗がりで何度も躓く。情けなく涙を拭いながら何度も立ち上がった。履きなれてくたびれたローファーの爪先が凸凹のアスファルトにはまって転ぶ、なみだで濡れた視界では走っては転ぶばかりだった。顔面を強くぶたれるような衝撃が駆け巡る、星が散って意識が押し寄せたり遠のいたりした。あまりに惨めで、そのまま地面に突っ伏して泣いていたかった。突き刺すような痛みに世界が回る。八重はやっとの思いで立ち上がった。どうしてそこまでするのかと誰かの困惑の色が滲んだ声がした。

 会いたい。たったそれだけだった。四文字のチープで陳腐な言葉にわたしは翻弄されている。夢の中の彼はまた笑うだろうか。不規則で歪なマーブル模様が点々と足元に染みを作るように、なみだがぽとぽとたれていく。擦りむけて血が滲んだひざ小僧の砂利を払って、また一歩駆け出すうちに、やがてそれは真っ暗な地面に吸い取られて遠のいた。ちょっとしたことで涙が出る、他のことがまるで手につかなくなる、そわそわして落ち着かなくてじれったい、こんなにも胸を焦がすのは、世界中どこを探し回ってもたったひとりだった。視界の端に捉えたその色彩を見逃さない、わたしが彼を見間違える訳が無い。東洋人が持たない特有のきらびやかな色彩がぼうっと浮き上がる。この世のものとは思えない美しさ、同時にやっぱりミスマッチだと思った。

 やっぱり、ここにいた。八重は見えない何かに誘われるようにゆったり歩き出す。走り疲れて鉛のように重たい足を前へ進めた。急に頭の中がすうっと明瞭になる、激しく上下する胸が落ち着いて、なみだが嘘のように引っ込んだ。心が、すごく落ち着いていた。全てを包み込むような夜はどこまでもやさしくて暖かい。春の妖精の囁き声が通りすぎ、濡れたなみだにひかる頬を撫でていく。ずっと前からベルはここにいる気がしていた。公園の外れの丘の上に大きなさくらの木がある。昔ふたりで見たことがあった。今でも鮮明に覚えている。八重は何か大切なことを彼に伝えようとしていたのだ。今度こそ、と息を呑む。

 あのね、ずうっとまえから。
 はくりと唇が意味も無く動く。あの日言えなかった言葉の続きを言おうとしたのに、ここまで来て困ったことにこんなことが言いたかったんじゃないと気がついた。涙と泥で汚れたぼろぼろの八重に驚いているベルと視線が交わることはない。ちらりともこっちを見てはくれなかった。風化して錆びたフェンスの上に乗ったまま、震える唇がわたしの名前を呼ぶのが聞こえた。

「帰るんだ」
「……サクラも見たしな」

 ベルの口ぶりは別にさくらを見ることが目的だったんじゃない気がした。まるで興味がなさそうに、一度幹の方に視線をやって、また戻した。お前の泣き顔拝んで帰ると彼はわたしをからかった。

「さびしいよ」

 さびしいよ、その言葉に初めてベルが顔を上げて、前髪の奥に隠された目を見開いた。まっすぐわたしを見る。わたしも見つめ返す。視線がかちあって瞳からは火花が散った。そう、わたしはさびしいのだ。ベルのことなんて一つも知らなくて、それなのに気持ちは募るばかりで。行かないでなんて自分勝手でおこがましい、そんなふうには思わない。だけど、一言、さびしいと胸の内を伝えなければいけなかった。

「これ、なんていえばいいかわかんない」

 そっと彼に近付いて胸元を引っ張った。一瞬驚いて身を固くするのもお構い無しに口付ける。唇をくっつけただけの、一方的なものだった。やってやった、と内心勝ち誇る。八重は面食らっているベルに愉悦に満ちた顔をしてやるつもりだった、残念ながらそれは失敗に終わることになる。

「カンタンだろ」

 百年早いんだよと罵られて、額に優しくキスが落とされる。唇にはしてくれないの。我慢して押し殺していたのに、うっと胸に詰まったようなみっともない声が出て産まれたての赤ん坊のようにわんわん泣いた。わたしは子供のままだった。蛇口をひねったように大洪水が起きている、嗚咽混じりにしゃくりあげる八重のおでこを軽く指で弾いてベルは笑うだけだった。八重はこんなに泣いているのに、目の前のベルは笑って頭を撫でる。言うまいとしていた言葉が泣き声と一緒になって飛び出してしまいそうで息をとめた。彼の姿が暗がりに溶け込む直前、薄い唇が開かれる。「皆様に残り少なくなった商品のお知らせを致します――」間もなく祭りが終わることを知らせるアナウンスに掻き消されてしまったけれど、わたしにはなんて言ったか分かった。

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