どうして飛び移る木から落ちたりしないのかふしぎだった。だし抜けに、どこ行くのと尋ねてみる。



 ぼんやりと薄目を開けて子猫のようにベルにすり寄る。瞬きの合間を縫って切り替わる翳った緑の景色と天鵞絨のカーテンをひいたような空の色に夜なのだと悟った。

 世界が溶けていく。八重は霞がかかったような頭でそう思った。目まぐるしく、急速に世界はきらきらときらめいて溶けだしていく。この少年の腕に抱かれているといつだって目の前が不思議な明るさを帯びてくる。恐怖がゆるやかにほだされるように溶かされていく。逞しくて頼もしい腕の中に抱かれている八重は夢でも見ているような心地になっていた。この人はいつだってわたしに新しいものを見せてくれる。八重はベルを見ていると幼い頃に読んだ童話を思い出す、どこからともなく現れては気まぐれに消えてしまうチェシャ猫やネバーランドに連れて行ってくれるピーターパンのようだった。

「ずっと遠く」

 不意に問いかけた言葉はベルの耳にしっかり届いていたらしい。冷たい夜の風の匂いが鼻腔を満たしている。相変わらず何を考えているのか分からない、冷めた表情のままそんなことを言うから困惑した。そんな怖い顔して冗談言わないでよ、わらえないし。

「じゃあ攫って」

 怖いことを言うなと思ったのに、気付いたらとんでもないことを口走っていた。自分でもまだ寝ぼけているのかと思うほどには突拍子もないことを言っている自覚がある。冗談に冗談で返すみたいな口ぶりだけど本心は冗談なんかじゃない。わたしのこと攫って、隠してしまって。どこか遠くに一緒に連れて行って。分かり辛いベルの視線が前髪をかいくぐって八重を射抜く、視線はとらえて離さない。夜の静かなインディゴを宿した瞳は何も語らない。彼が黙って何も言わないかわりに、体をぎゅっと抱き寄せたのが分かった。八重は沈むようにまた眠った。

「いっ!……たくない、全然痛くない」
「足ぶつけてんの知ってっから」
「大丈夫だって」

 そんなことに気付かなくていいのに、目敏く色素のついた痣を見つけたベルは軽く驚いていた。視線の先を辿って慌てて足元を隠したが、あっという間に問い詰められる。加減した力で頬をつねられて抗議の声を上げる。観念して暴れた拍子にぶつけたのだと告げれば、どうするべきか考えあぐねているような素振りを見せたので八重は内心驚いた。てっきりバカにされるものだと思っていた。

「……ほっといてくれればいいのに」
「やだね。見してみ」

 不器用なやさしさで足首をそうっと掴んで引っ張ると手際よくガーゼを貼ってくれる。ほんのちょっと血が滲んだ白い皮膚の切れ込みに、ベルは怯えているようだった。何が怖いの、と言おうとしたけれど八重は何も言わずに黙っていた、少しだけ、その上に出来た痣を思いっきり押されたりしないかと考えていたが杞憂に終わる。半透明のテープがするするとベルの細くて長い指に引き伸ばされて、ぴりっと指先から破られる。大袈裟なガーゼが乗せられていたわたしの足にそれが貼られる、ベルの指先になぞられるのがくすぐったかった。

 自分にもそうすればいいのにと思った。歪な楕円形に変色してしまっていた皮膚の部分を静かに辿る指先がひどく愛しくなる。こんなにやさしいのに、どうして切なくなるんだろう。少しだけ、痣は当分消えなくても構わないと思ってしまった。もうそこを無遠慮に押し潰される心配はしていなかった。そっと足に触れる前、扱いに困ったように躊躇する手を知っていた。言いようのない感情が八重のこころに入り込む。わたしたちは確実に別の方向へ進んでいたはずなのに、振り出しに戻ったようなことを繰り返している。

「ベル、自分にもそうしたほうがいいよ」
「オレは別にいいんだよ」
「わたしもいいよ」
「うっせ。オレが良くない」

 反論しようとして口を閉じる。傍から見ればはくはくと口を動かす八重はマヌケに見えるだろう。八重のこころに出来上がった模様に真っ赤なインクが無遠慮に注がれた。口を開いては閉じる度、結局言いたい言葉は見つからなかった。当たり前に「ありがとう」が自然に出る、そうだけど、そうじゃない。今はとてもこの胸の内を具現化することは出来ないと思った、人類が扱う言語なんてものでは、とても言い表すことが出来ない。


 別れ際、ベルの言葉が何度も脳裏をよぎって八重はどぎまぎしていた。どうして、わたしが怪我するのはだめなの。意気地無しの八重は怖気づいて聞くことなんて出来なかった。

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