沢田くんは案外すんなりと快諾した。難しいことはよくわからなかったけど八重も異論はなかった。ベルに借りた服を返して、帰ってくる。大丈夫とはいっても何かあってからじゃ遅いから三人は近くで待機するらしかった。予想外の人物の登場を除いて今のところ刺客はない、そんなの実は嘘なんじゃないかと疑いたくなるくらいぬくぬくと暮らしている。怪しい影が忍び寄る雰囲気は微塵もないけれど、こうして平穏に生きていられるのはもしかしたらみんなのお陰なんじゃないかと思うと怖くなるときがある。わたしってみんなの何なんだろう、わたしってどうして恐ろしいものに遭遇するかもしれないんだろう。テレビで見るようなドスの効いた声で「落とし前つけろ」なんて言われるような心当たりはなかったけれど、たまに気になって問いかけてみても曖昧に流されるだけなので最近は気にするのもやめた。

(ここだったよね、合ってるはず……)

 八重はあまり方向感覚に自信がなかった。道を覚えるのは苦手だし、よく迷子になる。あのときは熱のせいもあってほんとうにうろ覚えなのだ。朧気な記憶と携帯の地図を照らし合わせて、睨めっこしながら辿り着いた先はベルがいると思われるアパート。この外装には確かに見覚えがあった。よかった、と胸を撫で下ろし安堵する。そのくせにインターホンを押す指先は震えていた。

 ――出てこない。結論から言うと彼は不在らしかった。そりゃあここに住んでいるわけじゃないし、神出鬼没なベルはフラフラと夜の街にでも出歩いているほうが何となく似合っている。いつでも居るわけじゃないかと肩を落とした。淡い期待は見事に打ち砕かれることとなる。仕方ないので服が入った紙袋を玄関にかけ、背中を向けた。かさ、と袋が軽い音を立てて揺れる。風邪で飛んだりしないかな、と変な心配をしてもう一度振り返った。そこで八重は扉がほんの少しの隙間を作っていて、きちんと施錠されていないことに気付く。普段使わないからといっても不用心すぎる。盗られるモンなんて置いてないし、ほぼ空き家みたいなもんだろ。簡素な部屋を思い出し、そう言って笑うベルの姿が鮮明に浮かび上がった。彼なら気にもとめなさそうで額を押さえる。鍵を失くした可能性だって考えられた。こりゃだめだとため息をついていると奥から物音が聞こえて肩を揺らす。心臓が口から出ることがほんとうにあるなら今だ、と思った。まるでどきどきが波のよう。

「ベル? ごめん、入るよ」

 昔からどうしてか、こういうときの嫌な予感は的中する。敏感に反応してしまうのは何故だろうと不思議に思った。きっと自分のせいに違いない、丸二日この部屋で寝ていて看病してもらっていたのだ。勝手にあがるのは不躾だと承知で、あまりに生活感のないその部屋に入る。日が経たないうちにまたここへ来ることになるなんて思ってもいなかった。玄関で靴を揃えるとリビングに顔を覗かせる。「生きてる?」とソファで死んだようにしているベルに声をかけた。しんどそうにしているのが分かる。ごめんね、ごめんねベル。まばらにかかった前髪の奥の細められた瞳が夢見心地に揺れて、ゆっくりと見開かれるのを見た。静謐な色はどこまでも澄んでいた。

「勝手に入ってごめんね。服返しに来たんだけど、物音したから」
「いーよ別に」
「風邪うつしちゃった」

 抑揚のない声が少しだけ怖かった。おずおずと顔をあげると肩を掴まれていた。一瞬の出来事である。背にあるソファが緩衝材となったおかげで強い衝撃はない、かわりに伸し掛るようにして八重を組み敷いているベルがいた。回転の遅い頭では理解が追い付かず、肩にきりきりとした痛みがあることだけをやっとの思いで飲み込んだ。困ったのでベルを見上げるが悲しいくらいに反応が無い、額がくっつくほどの距離に息が止まりそうだった。

「どうしたの」

 絞り出した声は情けなく震えていたと思う、初めて会った時もそうだったっけ。への字に曲げられた唇が答えることはなかった。ただ黙って八重を見つめるベルに耐えられなくなって目を逸らす、嫌でも顔に熱が集まるのがわかった。何とも言い表せない、形容し難い表情で八重を見遣るとベルは大袈裟なため息をついた。その呼気の近さに驚いて肩が跳ねるが、逃がさないとでもいいたげなベルの腕によってしっかり押さえつけられてしまう。

「……のこのこ男の部屋入ってくるとかお前マジでねーから」
「ご、ごめん」

 たった今初めて、彼のこの人でも殺してしまいそうな尋常ではない雰囲気が怒りだと気づく。勝手に部屋に上がったこと、謝ったのにすごく怒ってる。わたしも悪いけど元を辿ればちゃんと戸締りしないベルが悪いのに。獣の落ち着け方を知らない八重はもうどうしていいやら、お手上げ状態だった。

「あ〜……ほんっと、うぜえ」

 怒り心頭な様子が今度は必死に我慢する様子に変わる、何かと格闘しているのか歯を食いしばっていた。八重はあたふたして身構えるが、どさっと鈍い音を立ててベルは右胸の辺りに崩れ落ちた。

「うわあ」

 無駄な労力を使ってこんなところで再起不能になられては困る。みんなが心配しないうちに帰らなければならなかった。驚いた拍子にテーブルに足をぶつけて血が滲んだ。何とか下敷きになっていたベルから抜け出すと、サイドテーブルに置かれた体温計を見つける。乱雑に置かれたコンビニの袋や市販の風邪薬を見る限り自分の面倒を見れる程度には動けたようだ。だったら熱があっても微熱程度だろうと、測定を終えた体温計を確認して目を白黒させる。ゆうに八度を超えていた。ありえない、辛そうにしていたが普通の人間はこの熱で動き回ることはおろか会話すら厳しいというのに。冷蔵庫の中に冷却シートが余っているのを見つけて応急処置でそれを貼ってやる、余っているなら自分が使えばいいものを、この人はとことん自分のことに無関心だった。急いで沢田くんに連絡すると事情を聞いてドラッグストアへ行くと走り出すのが電話越しに伝わる。まだもう少し、一緒に居たかった。

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