「ありがとう」

 寝ないでそばにいてくれたんでしょ、ずっと看病してくれたんでしょ、また助けてくれたんでしょ。ありがとね。八重の声が、誰もいなくなった部屋でまだ響いている。何度もついさっきまで彼女が過ごしていた部屋に視線を彷徨わせる。なんだかずっと広く感じた。

 向かい合ったテーブルで、静かな声を聞いていた。弱っているせいでいつもより素直だ。こんなにあっけらかんとして感謝されるとは思っていなかったベルは無遠慮に顔を覗き込む。

「……」
「あっ失礼なこと考えてる顔してる」
「熱で頭イカれたんじゃね」
「殴り飛ばされたい?」
「おーおー、病み上がりが吠えんな」

 目の前が不思議な明るさを帯びてくる。思わず口元を抑えて視線を落とした。今は八重の顔を面と向かって見れなかった。

「何やってんだよ」

 八重がいなくなってほんとうにひとりぼっちになってしまったベルは、もどかしさに腹が立った。泣き顔が見たいわけじゃなかったはずなのに、ここに来てから思い出すのは八重の困った顔や泣いている顔ばかりだった。そんな顔が見たいんじゃなかった。ダセー。好きな女引き留めた上に泣かすとかありえねーだろ。ほんと、何やってんだろうな。これで最後だと自身に言い聞かせていた。八重が寝込んでいた二日、最後にしようと思っていた。わだかまりは解消できずに燻ったまま、ベルにはもうどうしていいのか分からなくなっていた。結局、彼女に会ったらどうしようもなく手放し難くなるばかりで参った。それにサクラなんてまだ咲く気配もない、完全にマーモンにそそのかされて、思うつぼだ。今頃ほくそ笑んでいることだろう。心底嫌なガキだと思った。

 ふとシーツの乱れたままのベッドを見遣る、八重の亡霊が未だ寝ているような気がしていた。まだ、もう少しだけこの手を握らせてくれ。目を覚まさないでくれ。夢だと思ってくれればいいから、今だけ触れていたい。こんな時じゃないと指一本も触れられない。ベルは八重に触れるのが怖かった。彼女に会ってみて分かった確かなこと。いつもならもっと上手くやったのに、気付けなかった。こうなることは誰も彼も、天才でさえも予想することが出来なかった。

 バランスを崩した彼女を受け止めるだけだったはずが、気付けば名残惜しくて彼女を抱き寄せる。自分でも予想外に体が動いた。どうしても八重を離したくなくなった。薄っぺらい身体を強く抱き締めて、体温に触れた途端これだけあればいいと思った。何も要らない、お前だけいればいい。それは傲慢な独占欲で、後悔の形に似ている。耐え難い焦燥だった。結局、自分が逃げたくせにどうにかつなぎ止めておきたかったのだ。色気もへったくれもない、食べることばっか考えてるような、こんな女がいつまでもベルの心に棲みついて、図々しく居座っていることが解せない。世の中にはもっとツラのいい女で溢れているというのに、何度相手を変えても八重の顔だけは忘れられなかった。女に望まれれば出来ることはなんだってしてやった。与えるだけなら簡単だった。中身のない薄っぺらな関係をいくつも結んで、飽きるまで楽しんだ。ぼやけて霞んで顔も形も思い出せないいつかの女たちの中にいつまで経っても八重は含まれない。彼女の笑顔はいつでも鮮明に浮かんだ。

 それから暫くして、思いがけず八重と再開することになる。街中で男と歩く八重を見た、幸せそうな顔で腕を組みながら歩いていた。艱難辛苦、言葉が出ない。まあ、そうか、そりゃあそうだよな。なんてったって先に逃げたのはベルの方だった。今も健気に八重が待っていてくれるなんて思うのは虫が良すぎる話だった。別にいい。元々ただの一般人、暗殺集団の人間と一緒にいるほうがおかしいだろ。「お前はさ、普通のヤツと一緒に居た方が幸せになれるんだよ」その通りだった。いつかの自分の言葉が今更首を絞めてくる。

「驚いたな、まだあの小娘を生かしておいていたなんて」
「もうなんもねーよ。キョーミないし」
「……情が湧いた?」
「まさか。王子イチ抜けたーっと」

 自分で尻尾を巻いて逃げたくせに、八重がオレが残した跡なんて綺麗さっぱり捨てたみたいに他の男と幸せそうに歩いてるのがどうしようもなく腹立たしくて、その日は八つ当たりで関係ない人間を殺しまくったのを覚えている。何も言わせてやらなかったくせに、自分ばかりが八重に執着していたことに気付いてしまったその瞬間から、恐ろしい絶望に陥った。他の誰かの物になってから、漸く彼女を突き放したことを後悔した。

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