「え?」

 当の本人は驚いて瞬きを繰り返す。長いまつげがぱちぱち揺れた。ぴゅーっと赤い血が頬をゆっくり伝ってベッドのシーツに点々と赤い模様を描いていく。あまりの衝撃に状況もよく理解出来ないまま八重は意識を手放した。よわくて脆い。きっと、この女は一人で生きていくことなんて到底無理だと思った。しかしこのくらいで死なないことはわかっていた。流石のベルもこれには驚いたのだ。怪我をさせたかったわけじゃない。そもそも手が滑っただけで、殺意なんてないままのナイフは殺傷能力が低すぎる。掠ったとはいえ鋭利なナイフが頬を切り裂いたのに変わりはないが、この程度では人間は死なない。出血多量でもない。ばったり気を失った八重を抱きかかえてとりあえず止血してやる、こいつなら簡単に死んでしまいそうでヒヤヒヤしていた。死んでねーよな、こんくらいで死んだりしないか。あんまヒヤヒヤさせんなよ、誰の許可なしに意識ぶっ飛ばしてんだよ。つかゲームまだ終わってねーよ。「それ、最近のベルちゃんのお気に入りなのね」通りがかったルッスリーアがそんなことを呟いたのが聞こえた。腕の中の八重はしっかり息をしている。当たり前だった。こんなもんで死んでもらっちゃ人類の名が廃る。柄にもなく冷や汗をかいたベルは思わず笑う、ほっとしていた。こんなおもちゃなんでもねーよ、と吐き捨ててデカいガーゼを貼ってやるとひとりでゲームの続きをする。あの時は結構本気で焦った。やがて深い寝息に変わった八重を眺めているうちにベルも同じようにまどろみの中に沈んでいく。

「死んだかと思った」

 だから今度こそ死んじまうんじゃないかと思って、八重を見ていた。うなされて苦しそうな顔をしたり、呼吸するたびに上下する胸の動きを見て心のどこかで安堵していた。

「……勝手に死んだら殺す」

 また深い眠りに落ちた八重の頬にそっと触れる。傷跡はもう随分薄れて細くなったものの、今でもしっかりそこにあった。赤くなった頬に少し色濃くなった影が真っ直ぐ引かれている。悪かったな、あん時は。あの後ベルが目覚めると気を取り戻した八重は案外ヘラヘラしていて拍子抜けした。てっきり怯えてもう口を聞くことも出来ないと思っていたが遥かに予想を上回る能天気さではやく続きやろうなんて言って。痛くないかと聞けば全然と返ってくる。少なからず精神的なショックを受けたはずなのに、八重はそんな素振りも見せずに笑う。怯えて口も聞けない様子なら殺す準備は出来ていたが杞憂に終わった。「顔に傷が残ったら責任とってね」変な女だな、と思った。情けなく震える指先で、そうっと線を辿る。


 目を覚ましてすぐに、体が随分楽になったことに気付く。ベルは隣で椅子に座ったまま壁にもたれて寝ていた、そんなふうに気を抜いている様子は、なかなかお目にかかれない貴重な姿なのでなんだか新鮮に感じる。あの夜から一体どれくらい寝ていたかわからない。それまでのことは夜中に何度か目を覚ましたこと以外あまり覚えていなかった。彼のことは今も昔もよく知らないけれど、きっと看病なんて慣れないことをしたせいで疲れたのだろう。ずっと大人びたけれど、まだ少し、あどけなさの残る寝顔を見てそう思った。全部熱に浮かされて見ていた夢のような気がして確かめるようにベルを見つめた。触れる勇気はとてもなかった。何度目を覚ましてもこの人はここにいる。その事実に目頭が熱くなって唇を噛み締める。まだ残る微熱のせいで弱っているのだと思っても、最近涙腺がどうにかしてしまったみたいに涙が出る。

 とりあえず体を動かせる程度には元気なので起き上がったはいいが、肝心のベルはまだ夢の中。起こすわけにもいかないのでゆっくり上体を持ち上げて、まっさらな生活感のない部屋を見渡した。知らない部屋だ、ここがどこなのか見当もつかない。あるのは簡素なベッドとテーブルとソファにテレビだけ。恐らく電気や水道は通っているだろうが、必要最低限の物がなんとか揃っているといったふうである。サイドテーブルには体温計と水、濡らしたタオルが乗っていた。そこに自分の携帯を見つけて、思い出したように手に取った。そういえば、誰にも連絡していない。日付を確認すると、なんとあれから丸二日も経っていた。これではおっかない人たちとやらに狙われる前に実の祖父に命を狙われかねない。非常にまずい。慌てて「今日中に帰ります」と連絡を入れる。ツナにも「ごめんなさい、無事です。ちゃんと説明します」と送信する。ペリペリに乾いた冷却シートを剥がすと、水分をすっかりとられたシートがおでこにくっついて痛かった。そして自分がかなりオーバーサイズの男物の服を着ていることに気付いて、誰のものか一瞬で理解する。火がついたように顔が赤くなった。熱がぶり返すのではないかと思った。

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