「夢の中であの小娘の名前を呼んでいたよ」

 マーモンの静かな声に黙り込む。取るに足りないちいさな痛みがもう何年も蓄積されている、魚の骨が喉に引っかかったみたいな居心地の悪さだった。死ぬほど痛いわけでもないが、全く無痛というわけでもなく、たまに思い出したようにちくちくと痛むタチの悪い痛み。もう二度と会わないと決めて、この微妙な喪失感も、腹立たしくてもどかしい感覚も飼い慣らしているつもりになっていた。飼い慣らしていたつもりで、ほんとうは古い傷に少しづつ侵されていた。コップに溜まった水がまだ大丈夫だと思っているうちに溢れて取り返しのつかないことになっている。時間の問題だった、もうとっくの昔から水浸しになって溢れ出していたのに。稚拙で、傲慢で、独りよがりの情けない、ありふれたちっぽけな恋情だった。

 思い出すのはあの日のこと。泣きそうにせつない顔をする八重を、末恐ろしい心地で見ていた。頼むからそれ以上は口にしないでくれ、後戻りできないから、どうか心に留めてくれ。咄嗟に耳を塞ぎたくなる。歓喜と恐怖の入り交じるそれを抑えつけながら、そっと八重の色付いたくちびるに触れた。言葉の代わりの意思を汲み取った八重は俯く、ぽたぽたとまろい頬に透明な雫が伝っていくのを黙って見ていた。もう会わない。八重の気持ちに応える資格も度胸も、義理もなかった。目を背けてそれまでないがしろにしてきた、幹部の部分に触れられるような恐ろしい心地。今でも強く根付いている。

「やっと行く気になったのかい?」

 今はなりふり構っていられない、この胸に凝り固まってわだかまっているものを融解したい。別にあいつのためじゃない、あいつに会いたいわけじゃない、全部自分のため。王子がこのわだかまりから開放されるため。そう言い聞かせながらほとんど本能で動いていた。

 来るのはいつぶりだったろう。任務で何度か日本を訪れていたが、並盛に来るのは随分と久しぶりな気がする。そういえば自分が望んで行きたがらなかったことを思い出す。苦い記憶から逃げていた、あまりに子供なやり方だったと我ながら呆れ返る。思えば初めて日本を訪れた時、大目玉は八重の祖父だった。ヴァリアーにスカウトされた経験のあるという並盛に住む元軍人を探して三流以下の小物狩りにも飽きていた時、たまたま現場に遭遇してしまった八重に出会った。見られたからには殺してやろうと思ったが、マーモンに口うるさく注意されることを思い出して思索する。どやされるのはつまらない。その間わずか二秒、あっという間に八重の生存権はベルによって握られる。生かすも殺すも容易いことだった。とはいえあの軍人の孫だと見抜いて生かしたわけでない。ただの気まぐれ、終わったら気絶させて捨てるか、他にもっと強いやつを探させるか迷っていた。貧弱で見るからに弱そうな女なんてカモにはぴったりだ。

「あわわわわ」

 命の危機を感じて恐怖の沼に引きずり込まれた彼女は大粒の涙をこぼしながら泣き出した。さっさと逃げ出せば助かったのだろうがあまりに滑稽で愉快だった。その上パニックになって勝手に自分で呼吸困難になるときた。自分で自分の首を絞める女が能無しの馬鹿で興味が湧いた。だから生かした、それだけだった。勝手に死ぬような虫けらみたいな女を殺そうとしたらもっと面白い反応を示すような気がして、見てみたいと思った。泣き腫らした醜い顔で気絶しそうな女を拐って、生かしたのが間違いだった。

「し、しにたくないです、家に返してください」
「うぜーから泣くな」
「う、うわーん」
「次王子が鬱陶しいと思ったら殺す」
「そんな……」

 ひんひん泣く八重を黙らせて、暫くは脅したりして楽しんだ。嫌がる顔や怯えて泣き出す顔がたまらなく滑稽、飽きるまではおもちゃにしてやることにした。そのはずなのに、いつからか八重を殺すことはすっかり忘れ去ってしまっていた。

「ししっ、オレに楯突くとか生意気」
「さっき勝ったのわたしだもん」
「あ? 今まで連敗記録更新だったくせに」
「ゲームなんてやったことなかったの!」
「言い訳すんな」

 ナイフの柄をぐりぐり頬に押し当てる。こうすると八重は大体ビビって大人しくなる。絶対に本気で刃向かってこない従順なところも結構気に入っていた。ムカついたらすぐに殺せたはずなのに防衛本能からか、無意識のうちに八重はギリギリの塩梅を区別していたように思う。物分りのいいやつは嫌いじゃなかった。

「ヤッベ」

 だから本気で殺そうと思うことは一度もなかった、もう傷付けようとは思っていなかった。ぴ、と見慣れた鮮血が飛び散る。見慣れていないのは日常茶飯事のその血が流れる場所に、八重とベルが居合わせていることだった。まっしろい、柔らかな頬がベルのナイフによって切り開かれていく。手が滑った、お前を傷付けるつもりなんてなかったのに。

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