生まれ変わったら静かな木になりたいと思う。あの人と出会わなければ、喉元を過ぎても忘れられない気持ちを知らないままで居られたのに。

「記憶も思い出もどんどん都合の良いように改変されて、脳に都合の良いように作り替えられていくけれど、今もこんな腐って死んじゃった恋をしているくらいには往生際が悪いんだよ」
「それってまだ恋って呼べんの?」
「呼べない」

 彼は呆れたように頭を振って馬鹿にしたように笑う。お前結構面白いよ、貶されたのか褒められたのか分からない言葉だった。じゃあさ、と顎を掬われて無理やり彼の方を向かされる。似てるなんてもんじゃない、そっくりそのままベルだった。だけど触れられる手は全くの別物だとすぐに気付く。覚えている、今でも鮮明に覚えている。ベルの手はもっと華奢で細いけれど、よく見ると手の皮が分厚くて、意外と逞しいから。彼のことは何一つとして忘れていなかった、時間が経って脳が要らないものを遮断して、廃棄しようとする度に八重が忘れたいと思う一方で本能はそれを許さなかった。生まれ持って遺伝子に組み込まれていたように、細胞が彼を記憶している。離してくれないなら噛むよと威嚇すると彼はなんてことないようにせせら笑う。本気なのに。

「離してよ」
「ベルが目の前にいるんだぜ?」
「違う」
「は、生意気。言い切るんだ」
「ベルはね、わたしに触れる時もっとやさしいよ」
「あっそ」

 がぶり。容赦なく唇に噛み付かれて目をぱちくりさせる。キスどころか唇を食べられた。痛い。悶えながら白い部屋をのたうち回っているとさぞかし楽しそうな笑い声が聞こえてきた。この人でなし。思いっきり罵ったけれどまるで相手にされない。唇から血をだばだばと流しながら目の前の男から飛ぶように退いた。

「オレお前のこと結構好きなんだぜ。アイツのことで泣いてるのとか滑稽だし」
「嬉しくない」

 元から距離なんて存在しなかったかのように詰め寄られて腕を掴まれる。唇を押さえていた右手は簡単に退けられて、また血が滲みだした。あたふたしてびくともしない胸板を肘で押してみる。結果は惨敗。べろ、と唇に舌が這う。何が起きたか理解できないまま硬直する。ろくでもない男は硬直状態のわたしを見てゲラゲラ笑っていた。

「ありえないんだけど……!」

 ぬるい水の中でたゆたうように、意識が中途半端に浮上する。怠惰な倦怠感と不快感で酷く目覚めが悪い。なんだかとんでもない夢を見ていた気がするが今は脳が働くことを拒否している。誰か怪我人でもいるのか鉄の匂いがした。それに混ざって懐かしい匂い、まさかと思った。ありえない。
 ベルの影はいつまでもわたしにつきまとう。バスに乗っていても電車に乗っていても、街を歩いている時でさえその色彩や匂い、表情や仕草が八重の網膜に焼きつけられた記憶のベルフェゴールの一つ一つを細かく、はっきりと思い出させた。もうとっくに傷んで霞んで色も形もぼやけて思い出せないはずなのに、唐突に彼の影は現れて八重を動揺させた。今回も同じだと思った。最初に意識が浮上した時、夢心地のまま懐かしい匂いにひどく安堵した。そんなことを考えながら夢と現実を行き来する。意識は浮かび上がったり、またゆっくり沈んだりしている。暖房の効きすぎた部屋で八重の体は芯から凍ったように冷えていた。時折苦しそうにふう、と息を吐く、まるい頬は熱を帯びる。自分がどこにいるのかも分からない。うなされて目覚めては眠りに落ちるようなそれを何度か繰り返して、漸く意識がはっきりとしてきた。起き上がろうとして、最初に重たい瞼をゆっくり持ち上げる。

 言葉が、出なかった。
 その人が、ベルがあの日と変わらぬ表情で八重の顔を覗き込んでいる。これは夢だ、きっと熱に浮かされて昔の夢を見ているのだ。

「死んだかと思った」

 夢なんかじゃない。静かに八重の額へ手を伸ばして熱を測るその動作を見て確信する。なんてことだろう。色々な感情がもみくちゃになってもつれあって、絡まりあっている。精神的にも身体的にもいっぱいいっぱいで言葉も発せずに、八重はただただ爆発しそうな胸の内の、なんとも言えないせつなさやかなしみを抱いて、知らない、清潔そうな部屋の真っ白いベッドに横たわるだけだった。

「食欲あるか? なんか食いたいもんあったら言えよ」
「……」
「何聞いたか知らねーけど気にすんな。つか病人は寝てろ」

 うん、ううん。そう、小さく頷くか横に首を振るかで意思表示をするといよいよこれは現実に起こっていることなのだと理解した。理解した途端に涙が止まらなくなる。ずっと会いたかった人が目の前にいる。どうしようもなくて、陳腐で甘ったれた妄言ばかり、ごっこ遊びのようで、恋なんて大層なものでもなかったけれど。今も心は恋の痛みに、切なさに、悲鳴をあげて叫んでいる。

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