ベル、待って、まだ行かないでよ。そんなに急いでどこ行くの。あのね、わたし、まだ伝えたいことがあるの。自分よりずっとずっと大きな背中が遠のいていくのがわかった。何を言っても彼は立ち止まる気配を見せない。まだ何も伝えられてない。まだ何も伝えられてないのにな。好きなところ、いっぱいあるよ。女の子みたいに色白で細い手、しなやかな指の動き、煌めくような光彩で揺れる髪の毛。ティアラと一緒に乗っかっているエンジェルリング。どこをとっても美しい、繊細に創り込まれた彫刻のような人。血管の浮き出た手、逞しい手のひら、よくみたらマメができて分厚くなった手の表面。ずっと触れられる度にくすぐったくて、どきどきした。

 あの時と全く同じ夢を見ている。はるか遠くに沈んだ意識の中でぼんやりと同じ夢を見ているということを理解していた、もうこの夢は何度見たかわからない。そろそろ現実との区別が難しい。ベルの顔が歪んで、捻れて、不気味に蠢いている。酔いそうになるほど揺れる世界で八重はいつものようにひたすら走って、息を切らしながら彼の名前を呼んでいた。無理だ、到底追いつけない。ベルの背中が遠すぎて、手を伸ばしても絶対にその手は掴めない。行く手を阻むようにしてまとわりつく桜の花びらを払い除けながら何度も何度も手を伸ばした。もう見えないくらい小さくなったその人は、振り返ることもなく、ただひたすらに逃げるように八重から離れていくだけだった。

「お前も大概懲りないじゃん」
「っ……!」

 沈黙。歪む世界もベルも桜も消えた、ここには白一面しかない。暫くは八重が激しく胸を波打たせて息を吐く音だけが続いていた。全速力で走った後のように息が苦しい。それが漸く緩やかな呼吸音に変わった頃、彼が酷く冷めた様子で隣にいることに気が付いた。

「いい加減過去に縋り付いてメソメソするのやめろよ。この夢の意味も分かってんだろ」
「だって」
「何だよ。過去のしょーもない恋愛の綺麗な部分だけ反芻して、勝手に美化して『忘れられない』って思い出しては泣いて。それの繰り返し、悲劇のヒロイン気取りで見てらんないっつーの」

 全く彼の言う通り。返す言葉が見つからない。ニヤニヤ嫌な笑いを浮かべる目の前の男の子を見ても怒りは湧いてこなかった。彼を見ていると、遠くなる後ろ姿を思い出してどきりとした。多分初恋だった。知らなかったこの世の美しさも、恐ろしさもすべて教えてくれたから。中学生という多感で、活発な一番の成長期だったからに違いない。元より天真爛漫な性格だった八重は見るもの全てに目を輝かせた。抱いていた恐怖心はいつしか消えて変わり者のファンタジスタにすっかり懐いていた。あの頃のわたしにとっては全てだった。わたしはベルの誕生日どころか国籍も、日本を訪れた理由も、詳しいことは何一つ知らなかったけれど、それで良かった。ふたりが一緒に過ごせるなら、なんだって良かったのだ。唯一知っていたのは好きな食べ物と年齢だけ、とにかく何かを隠していることだけは中学生なりに分かっていた。それが薄暗い事だということも。だけどわたしはそんな現実からは目を逸らしていた。こんな時間が続けばいいのに、と愚かな幻想を抱いて。ベルにからかわれるのはつまらなかった。

 あまりにペットのような扱いだったので、実はガールフレンドがいるんじゃないかとか、色々と考えたことはあったけれど、考えるだけだった。意気地無しな自分には問いただす勇気も何も持ち合わせてはいなかった。

 ひどい話でしょ、饒舌になって語りかける八重に彼はそりゃあ傑作だなと遠慮なく笑った。そういうところまでそっくりだ。そう、わたしは彼に盲目的な恋をしていたのだ。絵本のように煌びやかにかがやく王子さまのごとく、颯爽と助けに来てくれる人ではない。想像すると確かに似合うのだけれどやっぱり何か違う。目を逸らしたまま、無垢な少女のつもりでいた。星のかがやきを知る人に憧れを抱いたまま、見る必要は無いと手で覆われた仄暗い部分には都合良く目をつむっている。ただひとつ、彼がわたしの王子さまであることに変わりはなかったのだから。

「初恋なんて、そんなにきらきらしたものじゃなかった。ただの、押しつけの妄信、そんなところ」

 当時の八重は、妄信を恋だと信じて疑わなかった。致命的な判断ミス。当然、それに気付けるわけもなく、八重は綺麗な綺麗な恋だと錯覚した。だけどベルは突然いなくなって、ショックで立ち直れないくらいには喪失感は大きいものだった。プラトニックの物真似をした、八重ひとりのチープなごっこ遊びだったけれど、気持ちも伝えられずにいなくなってしまった時は子供みたいに大声を上げて泣いた、そこには確かにベルを想う気持ちがあった、あれは確かに恋だった。

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