答えられなかった。自分の手元に戻ってきた栞を握り締めながら日が沈み出した並盛を歩く。帰路はとても遠く感じた。日中はあんなに暑かったのに、今では凍えそうに寒くて暗い、真っ暗になるとこの年になってもまだ早く家に帰らなきゃなんて考えてしまって嫌になる。昔は遅くまで出歩かせてもらえなかった。かなり大幅に予定は狂ったが、書店で手に入れた教科書を抱えて歩く。ツナのトークルームを開いて、命の危機には面したものの、なんの問題もなかったことを伝える。遅くなるから帰ってもらって大丈夫といった旨のメッセージを送信すると、すぐに安心した表情の動物のスタンプが送られてくる。この頼りなさげなライオンのスタンプ、沢田くんに似てるな。恐らく心配して連絡を待っていたであろうツナに感謝して八重はとっぷり日の暮れた道を再び歩いた。

 ひとりで歩けば歩くほど、雲雀の言葉について考え耽っていく。別に問いかけたつもりはなかっただろう、わかっていても痛いところをつくような言葉が八重の頭の中に渦巻いている。あまりに鋭く肉薄した言葉だった。なんでってそりゃ、ベルのこと思い出して勝手に苦しくなるからなんだけど、そんなこと雲雀さんに話す義理もないし、あの人にそういう色恋沙汰は通用しない気がするし。そもそも問いかけられたわけじゃない。気まぐれに、何の気なしに呟かれた言葉にこんなに動揺している自分がどうしようもなく情けない。言葉ひとつに翻弄されている。動物的な彼にはその手の話だけはどうもタブーな気がする。もし好きだった人間のせいだと伝えたとして、彼はなんと言ったろう。無視されるかな、無言で咬み殺されるかな、でもきっとどうでもいいんだろうな。結局、顔色ひとつ変えずに理解出来ないと告げ、なんの反応も示さない以外に八重は全く想像がつかなかった。雲雀のことを知らなさ過ぎて、鮮明なイメージが浮かばない。あれだけ震えて縮こまっていた張本人が目の前にいて、会話をしていたというのに彼に関する情報を何一つ知り得ていない。なんだか妙な気分だった。あの人がいつから並盛にいて、いつまでいるつもりなのかは知らないが三年間は全く関わりがなくとも、一緒に過ごしたはずなのに。思えば言葉を交わしたのだって今日が初めてだった。偶然出会っていいように都合良くパシられて、終わった頃には「さっさと帰れ」と部外者よろしく学校からつまみ出される。久しぶりの外出は波乱万丈のとんでもない一日だった。

「あ、もしもし。雲雀さんのとこにいて大丈夫だった?」
「生きてるよ、危なかったけど」
「まだ並中の近くだろ? 迎えに行くよ」
「えっ、いいよ。一人で帰れるよ」
「でも……」
「沢田くんの帰りが遅いとおばさんも心配するじゃん」

 うん、じゃあね。大丈夫、そっちこそ気をつけて。そんなやり取りの後に八重は通話を切って携帯をポケットにしまう。ここ最近ずっと家をあけていて帰りも遅いとなればいくら高校生といっても親は心配するだろう。おばさんに不安な思いをさせるのも申し訳なかった。春の夜はまだ寒い。「さぶっ!」と呟いて鼻をすする。風邪を引きそうだった。そういえば朝のテレビでニュースキャスターが今夜は花冷えとなるでしょうなんて言っていたのを思い出す。寒いしお腹はすくし春休みの課題は終わっていないし、帰ってからやることが山ほどあるなと途方に暮れていると一瞬、風が凪ぐ。すぐにまた北風が吹いて、あっという間に巻き上げられた栞はひらひら舞って闇に溶けるように消えてしまう。慌てて橋の上から身を乗り出して川を覗き込んだ。困ったことになった、あたふたしているうちに大事な栞は流されていく。

 もうただの塵屑なのに、どうしてか手放せない。巡り巡って戻ってきた栞が、愛しくてたまらなかった。自分と彼とを繋ぐたったひとつの印のように思えて心のどこかで諦めきれずに河川敷に降りる。息を切らして浅瀬につくと靴と靴下を脱いで素足でごろごろとした大きな石を踏みしめて歩く。足がもげてしまいそうだった。

「絶対見つからないのに……」

 ばしゃ、ばしゃ。
 腕まくりをして気合を入れると水を掻き分けながら手探りで栞を探す。水は冷たくて痛くて、涙が出そう。この川は浅いし流れもそこまで早くないからそんなに遠くには流れていないはずなんだけど。見つかるわけないよね、ありえない。真っ暗で何も見えないし、もうとっくに水浸しでちぎれてばらばらになって流されてるに決まってる。帰りたいなあ、帰ろうかな。自分に呆れてため息が出る、また幸せが逃げてしまった。それからしばらくは冷水に晒された八重の呻き声と、ばしゃばしゃざぶざぶ水を掻き分ける音だけが続いた。たかが栞なんかのためにこんなことして、ほんとに面倒くさい女だ。諦めが悪くて愚かで言葉も出ない。早く帰ってちゃんと家にいてね、って沢田くんに言われたのにな。ごめんね。もう原型をとどめていなくたって、ほんの一部しか残っていなくたってなんでも良かった。ただ、手元にあれば、それだけで良かった。八重はどうしても諦めきれなかった。

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