かつんと音を立てて転げ落ちていく茶色の、新品のローファーがやけにゆっくり見えた。新学期が始まるからと買ってもらった、まだあまりはきなれていなかった新しいやつだ。また電車を逃すことになったら笑えないので、慌ててころころ転がる靴を追いかける。可哀想なわたしのローファーは無情にも、たくさんの足に蹴り飛ばされて転げ落ちていく。電車に乗ろうと階段を上がっていく人の波に逆らっても反対方向に進むのは中々難しかった。「すみません」とか「ごめんなさい」とか呟きながらお昼時なのにそこそこ人で溢れた階段を降りていく。ぎゅうぎゅう押されながら階段の下を覗き込むとローファーを見失ってしまった。電車が来るまであと何分残っているだろうか、最悪の場合片方無くしたまま乗ることになる。恥ずかしいのでそれだけは避けたかった。ざわざわと音になっているのか分からない、不明瞭な言葉がホームを飛び交い、八重の耳は集中してアナウンスの声だけを拾っていた。

「あ、すみませ」

 手すりに掴まって階段下を覗き込んでいると、目の前に白くて細い手が伸びる。ハッとして顔を上げる。靴下だけだった左の足首を持ち上げると、あっという間に靴をはかせられた。持ち主の元に戻ってきた靴はぴったり収まって、その様はまさに有名な童話を彷彿とさせた。「王子」と自身を称していたけれど、八重はこの時はじめて納得する。ああ、王子さまだな、と思った。彼は昔童話で読んだそのままだった。なのにこの異様な光景を誰も見ていないのが不思議でたまらない。ごった返しの人混みの中で空間を切り取ったみたいな、奇妙なことが起きているというのにこの場の誰も、見向きもしない。大人はみんな憂鬱気な表情で携帯の画面を見ながら忙しなくホームの階段を登っていく。まるで時間が止まったようだった。

「ありがとうございます」
「おー、高くつくかんな」
「ええ……お金取るんですか……」

 王子さまなのにと口をとがらせたら生意気、と鼻をつままれる。痛くて涙目になるとベルは満足気に口角を上げた。悪趣味だ。漸く現実に引き戻されたのはホームに曲が流れ始めた頃だった。

「どーすんのそれ」
「それ?」
「そのヘンな頭」
「……変って」

 あなたが切り落としてしまったくせに。今度はナイフが飛んできそうだったので口には出さなかった。刃物はやばい。まばらで不揃いな毛束を名残惜しげになぞった八重にしししと笑う。別に面白いことなんてないだろうに、笑ってばかりだ。ふいに、今度は反対の残っていた毛束が切れ落ちる。重力に逆らうことなく、風に舞って八重の黒髪は落ちていく。また切られてしまった。別に伸ばしていたわけではなかったので構わないけれど。どうだとでも言いたげに小首を傾げたベルになんと言っていいか分からず口を開いて、また閉じた。読めないなあ。彼の行動も思考回路も謎ばかりだ。だけど、不思議と嫌ではなかった。彼に初めに抱いた得体の知れない恐怖と不快感はさっぱり消え去っている。とち狂っている彼に今抱いているのはまた別の恐怖だった。それどころか八重は突然舞い降りたミステリアスなこの少年に少しづつ興味を惹かれていた。

「じゃ、またな」

 後ろを指差され慌てて乗り込む。ありがとうも言えないうちに車両は動き出した。ゆったりと長い息を吐き出すようにして加速し始め、その度に結合部が揺れる。ドアが閉まるのと当時にベルがそう呟いた気がした。




「ベル」

 切実に、それでいて切羽詰まったように泣きそうな彼女の囁き声を耳にして一気に意識が浮上する。自嘲するように笑っている顔がいつまでも拭えない。ぬるい泥の中に沈んでいた意識がゆっくり持ち上がってきて、漸く夢と現実の区別がついた。

 しとしと降りしきる鬱陶しい雨は昨夜から続いているのか、分厚い灰色の雲は一向に動く気配を見せない。夢見が悪かったせいかやるせない気持ちでしばらく天井を見つめる。久しぶりに夢を見た。長い間空けていた自室のシャンデリアは少し埃を被っているようだった。幹部の自室にはメイドは入らせない。プライベートの問題もあるが、そもそもルッスーリアの部屋に他の人間を入らせられるわけもなく、まあ、後はスク先輩や変態レヴィが私物のことについてうるさい。俺の部屋にあるものといえば最近めっきりやることも無くなったゲーム機とナイフの手入れに使う道具くらいだけど。今朝のイタリアは肌寒くどんよりとした天気だった。こういう日は気分が憂鬱で何をするにも億劫になる。

 夢を見ていた、あの日の夢を。ショートスリーパーで低血圧のベルフェゴールは基本的に寝起きは機嫌が悪かった。昔の夢を見て飛び起きた彼は暫くの間、脳が正常に動き出すのをぼんやり待ちながら思考する。懐かしく温かい気分になった、しかしその一方で目を背けていた苦い記憶も脳の奥底から引っ張り出されて思い出す。そういうものをありありと見せつけられるのは、夢とはいえどあまり気持ちのいいものではない。

「起きてたのかい」
「……」
「珍しいね、考え事なんて」
「あ?」

 ため息混じりのマーモンに視線を投げる。金に異常な執着を持っている術士のやなガキだった。昔から何もかもを見透かしたような態度が気に食わない。

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