「ねえジーナ、毎年旦那さんから薔薇をもらう?」
「何だかんだ、もう十年以上前からってところかね」
「すてき。そういうのって憧れるわ」
「花束の一本や二本くらい、ナマエだってもらったことがあるだろうに」
「ないよ! 学校でもずっと、気になる男の子は見てるだけだったもの」
「じゃあきっと相手もなかなか勇気が出なかったに違いない」
「分かるの?」
「若い子のことならそりゃ分かる。女心は尚更だ」

 旦那さんとの出会いはいつ? 付き合い始めたのは? 初デートはどうだった? 午後を過ぎて客足も途絶え、そんな話題で盛り上がっているうちに日が沈みはじめた。戸締りだけ任せると一足先にナマエは店を出た。アパートまでの短い道のりを辿る。あたりはコスモポリタンの空がゆったりと広がっていて、ずっと上の方にはうっすらとひかるスピカが見えた。なんて綺麗なんだろう。頭上ばかりに気を取られていたナマエは背の高い垣根の向こうで物音がしたことに遅れて気付いた。何度目かの淡い期待だった。日が落ちるのが早く、瞬きの間に空が暗くなっていく。目を凝らしてもそこに何がいるのか確認できなかった。アパートの住人が窓から何かを落としただけの可能性も考えられたけど、好奇心には勝てない。ナマエはレンガのブロック塀の上に乗ると垣根の向こうを覗こうとした。段差ほどの高さしかない塀からでは、せいぜい垣根の表面しか見えない。どうにかしようと必死に飛び跳ねてみる。

「チェシャー? また遊びに来たの?」

 きっとナマエだけがそう呼んでいるだろうに、すっかり名付け親になった気分だった。つま先立ちになるのも限界だったのでチクチクとした垣根の上に慎重に体重をかけていく。上手くいけば向こうが見えそうだった。もう少し……あとちょっと届けば……身を乗り出した瞬間、体重に耐えきれなかった垣根のてっぺんがぐにゃりと凹んでバランスを崩す。ナマエは勢いよく顔から垣根の向こうに突っ込んだ。情けない。今が暗い時間帯でよかった。あちこちを擦りながら起き上がる。

「なにしてんの?」

 顔を上げるとすぐ目の前に知らない男の子がいた。全く気づかなかった。驚いて小さな悲鳴をあげる。すぐに失礼だと思い口に手を当てたけれど、あまり意味がなかったように思う。少年……いや、青年だろうか。少し高めの独特な声だ。きっと、ナマエと歳はそれほど変わらない。片手を頬に乗せて首を傾げている。あたりの暗さも加わり、彼がしゃがんでいてほとんど同じ目線にいるせいで、全体的な雰囲気は掴めない。それに、薄暗がりの中でじっと見つめると彼の前髪が素顔を隠していることに気が付いた。

 アパートの裏は人の敷地だ。慌ててテラスを振り返る、ふしぎと人の気配はなかった。ガレージに車は止まっているのが見えた、今はまだ休暇でもない。日曜の夜なのに家の電気は真っ暗だ。庭にはアンティークな木目のガーデンテーブルとガーデンチェアが揃えられていて、その隣に小さな薔薇のアーチがあった。丁寧に世話されていたのだろう、小ぶりだが綺麗に咲いている。とりあえず家の住人はいないみたいだ。しばらくここにいても怒られることは無いだろう。再び前に向き直る。結果的にナマエが得られた情報は少なかった。垣根の裏に落っこちたら猫のかわりに、探していた猫そっくりの人間の男の子がいたということだけ。なんだかとってもミステリアスな子だ。問いかけた声はこちらを面白がっているようでもあったし、完全に見下しきっているようでもあった。ただでさえ素顔が隠れているのに余計感情が読み取りにくい。「……ボナセーラ」なんと答えればいいのか分からず、とりあえず挨拶する。傾いていた彼の首がほんの少し揺れた。笑っていたのだ。闇の中で白い歯だけが浮かぶみたいに、吊り上がった口の端がゆっくりと引き伸ばされる。チェシャー。次に気づいたとき、ナマエはそう口走っていた。それはもう、びっくりするほどあの猫にそっくりだったのだ。その瞬間からナマエの中のメモ帳は目の前の男の子をチェシャ猫……チェシャーの彼と記憶した。

「は?」

 彼の素っ頓狂な声に狼狽える。当たり前の反応だ。「ええっと……」とか「その」とかしどろもどろになって焦るうちに、なんとか説明しようとして意味もなく両手が動いた。

「違うの、その……ごめんなさい。あなた、探している猫にそっくりで」
「ネコ? 逃げたの?」
「ううん。飼い猫じゃないんだけど、この間この近くで見かけたの」
「まあ……いきなり人間が落ちてきたらネコもビビって逃げるだろうな」

 また、あのにやっとした薄い笑いを浮かべる。彼の言う通りだ。恥ずかしいやら情けないやらでナマエが何も言えないでいると、特になんとも思っていないらしい彼は続けた。

「そんで、どんなヤツ」
「確か茶トラで……尻尾が丸くて、瞳が綺麗な子よ」
「そんなの区別つかねーじゃん」
「見たら分かるわ。あなたに似てるし」
「嬉しくないね」

 短い笑い声を漏らして頭の後ろで手を組んだ彼が、交差させていた手を組みなおす。そのとき、シトラスの香りがナマエの体をゆるく抱き締めたので妙にどきどきした。急に彼のことを男の子だと認識したのだ。いや、初めて見たときから認識はしていたのだけど、あまりに唐突すぎた。得体の知れない彼のことをほんの少しだけ分かったからかもしれない。話してみて、ちゃんとコミュニケーションが成り立つと安堵する。そのせいに違いなかった。

「チェシャー、あなたなんて言うの?」
「知ってどーすんの」
「知りたいだけよ。せっかく話せたんだから教えて欲しいの」

 冷たくもないし暖かくもない平坦な声だった。ただただ発せられただけのもの。気分を害したようではない。彼にとって名前なんて心底どうでもいいのだろう。そんな受け答えだった。

 チェシャーの彼はしばらく考えている様子だった。思考の切れ端を覗いてみたくてじっと見つめる。ナマエも一緒になって黙りこくっていたが、やはり口元だけでは彼の思考など読み取れるわけがなかった。ゆるやかな時の流れの中――ほんの数分もなかったかもしれない――そんな短い間、二人は黙っていた。嫌なら無理に言わなくていいと思ったし、ナマエはうっかり自分が名乗っていないことに気づいて慌てて彼に向き直る。素直に謝ると彼は驚いて目を丸くした。(正確には、そう見えた。彼の目元はしっかりと閉ざされている)薄く開かれた口元がくたりと下げられて、それから優雅に弧を描く。少なくともナマエには、彼は驚いているように見えた。そんな些細な表情の変化でさえも嬉しくて仕方ない。

「……ナマエね。別に謝んなくてもそれくらいでイチイチ怒んないよ、オレ」
「失礼だったと思って。気を悪くしたんじゃないならよかった」
「心外。そんなふうに見える?」
「そういう訳じゃないけど……」

 ごく自然に会話が流れていく。彼が名乗るのを避けたがったことに変わりはないが、話を逸らされたとは思わなかった。彼は会話の矢印の流れをごく自然な動作で変えることができる能力の持ち主だと気づいたのは、それからもっと後になる。ふと、そういえばあのとき会話の流れが変わったな……と思い出すのだ。嫌な感じが全くしないし、おのずと変わっていくのでナマエはますます彼をふしぎだと思った。

 しばらくして、また夜の静寂が訪れた。昨日までと違い、今夜は一段と暖かい。日中も天気がよかったからだろうか……恋人たちが寄り添うのにぴったりな夜だ。店に来た客たちは今頃愛しい人に薔薇を捧げてることだろう。

 向こうも嫌気がさしてナマエと話すことを拒んだわけでなく、単純にそこに沈黙が生まれた。流れていく時間に気まずさを感じることはない。会話が途切れて、一体ここに来てからどれくらいの時間が経ったのだろうと疑問を抱く。アパートはすぐ側だ。特別急いで帰らなければいけない理由はなかった。そもそも、そうでなければナマエはこの場所に来ていない。何をしているわけでもないのにそれじゃあ帰るねと言うのもなんだかおかしな気がして、ナマエはうんともすんとも言わなかった。時間がきたら帰ればいい。いつその時間になるのかはまだ分からないが、彼がどこかへ行くまではここにいたかった。

 芝生にしゃがんだままの彼が猫のように欠伸をしているのを見て、思わず手を伸ばしそうになる。ぐっと体が前のめりになったところで、いきなり触れようとするなんていくらなんでも馴れ馴れしすぎるとその手を引っ込めた。ついさっき会ったのだ。奇妙な出会いだったが、それでも初対面のよく知らない相手に距離感を考えず寄ってこられたら不快に思うだろう。ナマエだって戸惑う。悪意がないにしても、驚いてどうすればよいか分からなくなってしまう。行方をなくした腕が低い位置を右往左往する。手持ち無沙汰になって、おもむろに芝生の草を抜いた。ガーデンランプがぽつねんと浮かぶ。もうずっと暗いのに今更灯るなんて遅すぎる、調子が悪いのかちかちかして消えたり、またついたりを繰り返していた。ぼんやりとした明かりの中でナマエは初めて彼の姿を見た。闇に溶けて滲んでいた輪郭が顕になる。高級そうな黒のコートの中に紫のボーダーカラーが覗いていた。ブラウンだと思っていた髪色はずっと明るい。オレンジ色の明かりを受けて、頭の上に乗ったティアラが時折反射でひかる。明かりの下で見るとまだあどけなさが残るようにも見えるがどうだろう……やっぱりそんなに歳は変わらない? 考え込んでいると、目の前の彼もやや猫背になってナマエの顔をまじまじと覗き込んでいた。すっと通った鼻筋が翳りを落とすと、今度は大人びて見えた。何か言おうとして口を開いたが、近くで物音がなって気を取られる。明かりの届かない暗がりの中で特徴的な丸い尻尾を見た気がした。思わず二人で顔を見合わせる。芝生から腰を上げて立ち上がると音のした方に近寄っていく。できるだけ足音を立てないよう細心の注意を払った。爛々とした二つの目玉が怪しく輝いている。ガーデンテーブルの下にチェシャーはいた。先週見たときと変わらない、ナマエに気づくと甘えたように足元に擦り寄ってきた。

「元気だった? また来てくれると思ってたのよ」

 抱き上げるとナマエに答えるように短く鳴いた。まるで人の言葉を理解しているようだ。賢いのね、チェシャーを撫でているといつの間に後ろに立っていたのか、彼がやってきてナマエの隣に並ぶ。一緒になって腰を下ろした。

「どこが似てんの」
「そっくりよ! ほら、もっとよく見て」
「全然似てねー」
「似てるってば」
「いーや似てないね」

 何がなんでも認めたくないらしい。彼は口をへの字に曲げて、不満がある様子を包み隠さず態度に示した。譲らないのはお互いで、しばらく押し問答を繰り広げると次第に馬鹿らしくなって言い合うのをやめた。彼とそっくりの猫はナマエのされるがままに撫でられていたが、するりと腕から抜けて木目のガーデンテーブルの上に飛び乗った。どうしたのかしら。おや、と顔を上げる。つられて彼も猫を視線で追いかける。黙って見守っていると、小さな前足を伸ばして立ち上がった。どうやら薔薇のアーチが気になるらしい。薔薇の棘で怪我をしてはいけないと慌てて立ち上がる。抱きかかえてアーチから離すと、チェシャーは不満そうに腕の中で鳴いた。不機嫌に尻尾が揺れている。仕方がないので許して欲しい。もし怪我をしたらナマエはどうすればいいか分からないし、この近くに動物病院もないので困ってしまう。撫でようとしたら短く威嚇されてしまった。ナマエは少し落ち込む。もしかしたらこの子にも薔薇を渡す相手がいたりして……だから興味を示したのかも……まさかね。

「今日が何の日か知ってる?」
「知らない」
「ボッコロの日」

 なにそれ。彼は少しだけ首を動かしてこちらに顔を向けた。ランプが照らしてくれる範囲から外れた場所では彼の顔がよく見えない。まあ、元よりほとんど隠れているようなものだけれど。闇は彼をよりいっそう引き立てる。ふしぎさと艶っぽさがたっぷり含まれて複雑に絡み合う。すごくセクシーだと思った。急に恥ずかしく感じて目を逸らす。

「……大切な人に薔薇を送る日なんだって。すぐそこの花屋で手伝いをしているんだけど、来た人はみんな薔薇を買って行ったわ。実はね、わたしも今日初めて知ったの。由来を聞いたときはとっても恐ろしいと思った」
「由来?」
「そう。九世紀に実際にあった話なんですって」

 店主から聞いた話をそのまま伝えると、彼は「しょーもない」と一蹴した。どうやらナマエとは違う感性をしているようだ。どう感じるかなんて人それぞれなのでどうとも思わない。十人十色だ。特に年頃の男の子はみんなそう思うだろう。それに、自分が少々ロマンチストの気があるということをナマエは自負していた。ただ、血染めというのがなかなか面白いと彼は続ける。

「あなたって……悪趣味」
「褒め言葉だね」

 たった今どうとも思わないと言っておいてなんだが、さすがにこれは如何なものか。思わず眉をひそめて非難する。
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