土曜日の朝は早起きのナマエも、最近は気付くとうっかり寝過ごしてしまっていた。昨夜からずっと、夢の中のように暖かい。シーツのつぼみの中からのそのそと起き上がってガウンを羽織った。心地よい気だるさがサテンのネグリジェにまとわりついている。一人暮らしのアパートにやわらかな日差しが差し込んでいた。この部屋はとても日当たりがいいのだ。大きなあくびを噛み殺してホワイトレースのカーテンを開けると、窓枠に一匹の蝶が止まっていた。きっと春の陽気を知らせに来たのだろう。時計を確認してエスプレッソを淹れながら今日のスケジュールを予定する。本当はサーバーを使って作るのが美味しいのだけれど、後から行きつけのバールに行こうと思っていたので今朝は簡単なインスタントにする。今から準備をして支度を済ませ、ショッピングをするつもりだった。新しいワンピースと靴が欲しい。買い物が済んだらカフェに行って、それからお昼頃には帰って来よう。シエスタの後に夕飯の買い物に行くことを忘れていないと尚更良い。

 ここ最近勉強漬けだったナマエは先週、実家に帰って深夜まで家族とホームパーティーを楽しんだ。ワインを飲んですっかり赤ら顔になった父親は普段から陽気な人柄だったが、余計に笑い、喋るようになった。ナマエのような一人暮らしの学生が週末実家に帰ることは珍しくない。ほとんど勉強に費やす休日と、実家に帰ったり友達と遊んだり、リフレッシュする休日があるのだ。来週から、またひたすら勉強の休日を迎えることになる。たまのリフレッシュの日が鬱蒼とした気分になるナマエの救いだった。ホームパーティーで食べた母親特製の魚のカルパッチョは変わらず美味しかった。一人暮らしを始めてから、実家が近いとはいえこのアパートに戻ってくるとほんの少しさみしさを感じる……ペットでもいたら気が紛れるのだろうが、学校に行っているあいだ他に面倒を見る人間がいないのでダメだった。いくらお利口な犬や猫だとしてもナマエは心配になると思う。それに、死んでしまったときは悲しい。長い時間を過ごすとそれだけの痛みが伴う。先週の土曜の夜、ナマエが部屋に帰ってきたときアパートの前をさまよっていた野良猫を思い出す。アリーチェの猫にそっくりで、人慣れしていて、撫でても嫌がらない可愛い猫だった。気分屋なのかミルクをあげようと思っているうちに居なくなってしまったのでナマエはもう一度会いたいと思っていた。あの猫がナマエがさみしくないように、たまに会いに来てくれたらどんなにいいか。

 淹れたてのエスプレッソで完全に目覚めると、さっそく身支度をはじめる。あちこち跳ねた毛先をブラシで撫でつけて言うことを聞かせ、胸の前に何着かブラウスを持ってきて合わせた。こんな春の日にはカナリアイエローがピッタリな気がした。カバンに財布と鍵とお気に入りの本を放り込んでアパートの階段を早足で降りていく。風はぬるく、じんわり暑い。思ったよりも日差しが強かったので、ナマエは帽子を持ってくればよかったと後悔した。春の訪れを喜ぶイタリアの街を縫うように歩いていく。ゴンドラのお供はいつも栞の挟まった本だった。本を読んでいない日だって、着くまで退屈することはない。絵本にでてくるようなカラフルな家がいくつも敷き詰められて並んでいるのだ。ゴンドラに乗って揺られていると流れていくポップな景色がナマエはとても好きだった。ゴンドラから降りるとすぐに店がある方向へ進んでいく。レンガの道を辿らなくても勝手に足が教えてくれた。もう何度も休日に来ているので慣れていたがやはり飽きない。ショーウィンドウの前で立ち止まったり、一つ一つの店を見て回ってじっくり洋服を選んだり、この時間が他の何より楽しく思えた。もう少し奥まで歩くとジュエリーショップやハイブランドの店が並んでいることを知っていたが、気が引けるようなハイブランドのものは今まで買った試しがない。学生の身分では到底買えないものだったし(そうでなくとも易々と買えないだろう)一度買うと戻れなくなる。そして何より、あれはナマエが着るような服じゃないと思う。けれど新作は今年もすてきだ。

「お似合いですよ」

 店の女性は愛想の良い笑顔を浮かべてナマエとライムグリーンのワンピースを交互に見た。もう少し試着してみたらどれを買うか決めよう。今度は明るいサックスのワンピースを手に取って試着室に入る。うん、やっぱりこっちの方がいい。靴もレザーよりエナメルのほうが似合っている気がしてそっちを選んだ。これをもって漸くナマエは頭からつま先まで完成したような気分になる。

「これと、あとさっきのワンピースを色違いでください」

 買いすぎた。ナマエの腕には大量のショッパーがぶら下がっている。公園近くを通ると、見頃を迎えたミモザが美しく咲き誇っていた。花を眺めながらピクニックを楽しむ人も多い。その公園を通り抜けた先にあるバールに入る。誰しもお気に入りのバールがあるが、ここがナマエのお気に入りの場所だった。ショッパーを抱えているのは少し恥ずかしい。レジで料金を払ってエスプレッソとパニーニを頼むと、すぐにカウンターに運ばれてくる。野菜がたっぷり挟まったパニーニでお腹いっぱいになったのでお昼はいらないかなと思った。来たときと同じようにゴンドラに乗ってアパートに戻ると、ちょうどいい時間だった。玄関にショッパーを積み上げて置くと、ベッドで本の続きを読むことにする。昼下がりのうっとりする空気に、いつの間にかナマエは眠りに落ちていた。煙が立ちのぼるようにして意識の深いところに潜っていく。



 イタリアの夜は長い。
 ナマエが遠い記憶の旅から戻ってくると、外はルピナスの帳に多い隠されていくところだった。またやってしまった。すっかり夕飯の買い物を忘れていた。今朝のように太陽のひかりがナマエをやさしく照らしてくれるわけではないので、寝起きの頭は上手く機能しなかった。かわりに薄ぼんやりとした月明かりが道しるべのように窓辺を淡く輝かせる。サイドテーブルに置かれたパールホワイトのランプがよく映えていた。こんな夜はアルテミスが迎えに来るかもしれないとナマエは思った。

 オレンジ色のあかりが漏れる。ペパーミントの冷蔵庫を覗いて見たけれど、簡単に作れそうなものと言ったらパスタくらいだ。何も無いわけじゃない、ただナマエには余った具材を上手に料理する方法がさっぱり思いつかない。母親のように料理上手ならよかったのだが、生憎ちょっとしたお菓子作りくらいしかできない。ミルクをきらしていることに気付いて、結局ナマエは外に出ることにした。日中はあんなに暖かかったのに。確かに春の兆しは見えるけれど、夜は少しだけ肌寒い。花冷えの街はしかしアペリティーボで賑わっている。互いにグラスを傾ける音が遠く聞こえた。みな積極的にレストランで食事をしているのだ。陽気な人たちの笑い声が店の外まで漏れていた。明るいおしゃべりに楽しくなってきたナマエはレンガの道を踊るように歩いていった。肺がひんやりとした空気に満たされる、外気を吸うのにちょうどいい。スーパーマーケットのゲートを通ってはじめにハムとサラミ、それからミルクを手に取った。自分へのご褒美のジェラートも忘れてはいけない。金曜日の夜の密かな楽しみだった。野菜はよく、新鮮なものをおすそ分けしてもらえるので買わなかった。ナマエがときどき手伝う花屋の店主はおおらかで気前が良い。いつもランチを作ってくれるのでとても助かる。明日は久しぶりに店に行く日だということを思い出して、忘れないように帰り道はそのことばかりを考えて帰った。



 翌朝ナマエは日光が顔に差しかかった眩しさで目を覚ました。いつもより高い位置に昇っている太陽に、寝坊したのかと慌ててベッドから飛び降りるが杞憂に終わり安堵する。なんてことはない、今日は一段と天気が良いのだ。また気温が上がりそうだと思ったので、薄手のベストとフレアスカートを選んだ。じゅうぶん余裕をもってアパートを出ると、花屋に向かう途中に野良猫を見た。チェシャーかと思ったがそうではない。また会えないかしらと期待してきょろきょろ周りを見回してみる。店番をしているあいだも、猫のことばかりを考えていた。

「なんだか今日は薔薇を買う人が多いのね」
「そりゃあ、ボッコロの日だからさ」
「ボッコロの日?」

 ナマエがオウム返しに聞くと店主は大きく頷いた。薔薇に限らず、恋人に花束を渡す男性は多い。ロマンチックな演出にはナマエだって憧れる。残念なことに今のところナマエに情熱的なアプローチをする男性はいなかったが。それはそれとして、今日は異常に薔薇を買いに来る客が多いのだ。ふしぎそうな顔をするナマエに、店主は語る。

 ――この習わしの起源は遠い昔に遡る。はるか昔のこの街には、互いを深く愛し合う恋人がいた。そのうちの片方の男は兵士として戦争に向かうことになり、恋人と離れることになった。必ず戻ると約束を交わしたが、男は戦場で命を落としてしまう。男が横たわった場所はちょうど、一面の白薔薇が咲き誇っている場所だった。男の傷口から滴り落ちた血が白薔薇を真っ赤に染め上げていく。「頼む。この薔薇を、どうか彼女に届けてくれ」男の最期を看取った友人は彼の願い通り、帰らぬ人を待つ女に届けた。そうして彼女は愛おしい人の死を知ることになったのだ。

「今日この日イタリアの男達はみな、大切な人に薔薇を捧げるんだよ」
「こんなに美しくて悲しい話があったなんて、わたし、知らなかった」
「ナマエにも、愛の囁きがあるかもしれないね」
「まさか!」
「どうだか。今日が終わるまで分からないよ」
「……そう思う?」

 ナマエは明るく笑い飛ばす。店主は至って真面目なつもりらしい。カウンターを出て水を差し替えながら鼻歌まじりに花たちの様子を観察している。ナマエは店の入口に置かれた大輪の薔薇を見つめた。血染めだなんて恐ろしい……初めはそう思ったが死ぬ間際に咲いていた薔薇に思いを託した男のことを思うと切なかった。切り裂かれた二人の運命に嘆いているとまた、ちりんちりん。可愛らしい音が鳴る、新しい客が来たことをナマエに知らせていた。入ってきたのは若い男だった。きっと彼も一輪の薔薇を求めてやってきたに違いない。男の血を吸って真っ赤に染め上げられた、悲劇の愛を語り継ぐために。

「薔薇を九本いただけますか?」
「はい。ええと、薔薇が九本ですね……九本の意味は確か」

 ここでさらりと言えたらかっこよかったが、ナマエはあまり花言葉に明るくない。誰でも知っているような花の名前とか、有名な花言葉とか、そんなところだ。専門的知識は持ち合わせていないしあくまで手伝いにすぎなかった。花を包みながらニコニコ笑って誤魔化していると客の男が微笑み返す。

「いつもあなたを想っています」
「ああ……それですね!」

 ほっとして頷く。丁寧に花を包んで男に手渡すと喜ばれた。店の外で花壇の水やりを終えた店主にシニョリーナと呼びかける声が聞こえる。彼女は既婚で夫と子供がいる、だけどお店ではこれが敬称なのだ。店主も朗らかに笑っていた。紳士的で、笑顔がすてき。靴の先までセンスがある。品のいい男だった。客の中にはユーロだけを握って薔薇のつぼみを買って帰った男や、カードで三百六十五本の薔薇を買って帰った男もいた。どの男達も薔薇を選んでいるときは同じように真剣で、幸せそうな表情をしていた。日頃の感謝を伝える者、交際を申し込む者……もしかしたら今夜、恋人のためにリストランテを予約している者がいるかもしれない。どうか愛の女神が彼らに微笑みますように、ナマエは心からそう願った。
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