「疲れてくるとね、人間の顔が2パターンにしか見えなくなるんだ」
強烈な西日が、二人っきりの研究室へ窓から差し込む。
夜が訪れようとしていた。
眩しそうに目を細める教授を見て、私は面談用のパイプ椅子から立ち上がり「ブラインド閉めますね」と告げる。教授は何も答えなかった。
「席を立ったついでと言ってはなんだが、コーヒーを入れてくれないか?もちろん、君の分も」
「ええ、分かりました」
窓際に向けた足をそのまま、部屋に備え付けられたミニキッチンへと向ける。
教授用のマグカップ、そしていつの間にか教授が用意していた私のマグカップを取り出しながら、考えていたのは、意味深な教授の言葉だった。
『疲れてくるとね、人間の顔が2パターンにしか見えなくなるんだ』
曖昧にぼかしてしまったさっきの反応とは裏腹に、私は強く興味を惹かれていた。
2パターン?どういう意味なんだろう……。
「私のには砂糖とクリープを入れてくれ」
「いれました」
「ありがとう」と言いながら、甘水と化したコーヒーを飲む教授を、断然辛党派の私は内心舌を砂でこするような気持ちで見つめ、そして、自分のカップに口付けた。
一口すする。可も不可もない、コーヒーの粉末を溶かしたお湯の味。インスタントコーヒーの味だ。でもゴールデンラベルなだけはあって、香りはいい。
三分の一ほど飲んだところで、さっきの話を伺おうと顔をあげた。
が、机の上に肘をついて顔を突っ伏す教授の様子に思わず目を奪われてしまう。
幾多ものフィールドワークを重ねたとは思えない、繊細そうな指が教授の額の古傷に触れる。
その指使いに、表情に、思わず私はどきりとしてしまう。
「痛むんですか?」
「……いいや。もう痛まないよ。時々うずくだけだ」
太陽の断末魔とも言える夕日を目を細めて見つめ、教授は呟いた。
「………雨が降るんだろうな」
そう言う教授の視線の先は、高い場所の雲が見えるほどの晴天で、とてもそうは見えなかった。
教授は私の通っている大学の大学教授だ。選考は民俗学で、授業は社会学を中心に執っている。
彼の最たる興味の対象は戦争。授業ではよく、若い頃にフィールドワークで向かった紛争地帯での話を織り交ぜながら講義を行い、本も出版していた。
教授の額にある傷は、そのファールドワーク先で負った傷で、相手の砲弾による破片が教授の前頭葉を削り取っていったのだった。
後遺症が残っても不思議ではなかったのに、教授は奇跡的に回復し、脳の数パーセントを失ったのみで日本に帰国して来た。
そんな事を、彼は平然とした表情で、むしろ嬉しそうに講義で話すのだ。
どうかしている。
要はどうしようもない人間オタクなのだ。それも性癖の域に達している。
それでも、というかだからこそと言った方がいいのか、彼の周囲には教授を慕う人間が多数居て、支持は絶対的なものだった。
思うに、鶴見教授には人を魅了する魔性のような、そんな物があるんだと思う。
それに現に私だって……。
あの完全無欠に振舞っている教授が「疲れた時」の話を私にしてくれているのが嬉しかった。
少しは心を許してもらってるって事なのかな……。
にやつく口元をカップで隠しながら、もう一度話の続きを促した。
「それで教授、さっき言ってた事なんですけど」
「うん?」
「人間の顔が2パターンに見えるって話です」
「ああ……。君はアルチンボルドの絵を知ってるか?」
私の中に、長らく忘れていた高校の美術の授業の様子が浮かんだ。
永遠に回廊する四角形の階段の絵、構造上ありえない水楼を表した絵。
その中に、アルチンボルドの絵画はあった。植物や野菜が組み合わさって人の顔に見えるというあの絵。たしか、四季というシリーズの夏という名前だった気がする。
「ええ、あの有名なだまし絵でしょう?」
「その生肉版」
「え?」
「疲れてくると、人の顔がグロテスクな集合体の化け物に見えるんだ」
そう言って、教授はもう一度窓の外を眺めた。
ガラスがわずかに窓ガラスを叩く音が聞こえるが、今の私の意識には入らない。
グロテスクな化け物?
私は思わず表情を強張らせた。
教授の言葉が予想外だったからじゃない。
見目好い容姿を持ち、教祖のように仰がれて、若い信者達を従える、そんな優美な世界を実現させている鶴見教授から、時折見え隠れする狂気に触れてしまった気がしたからだ。
誰しもが知りつつ、それでも彼を仰ぐ学内の生徒、教員達。
彼らは鶴見教授の狂気に一瞬でも触れた事があるんだろうか。
今の私のように。
「……それは、誰が誰だか分からなくなりませんか?」
取り繕った言葉だった。
そう言った途端、窓の向こうから雷の轟く音が鋭く響く。たったそれだけで、私の虚勢は脆く崩れた。
教授は初めから見透かしていたような目で私を一瞬見やると、傷を少し撫でてから腕を組んで椅子に背もたれた。
「まあね。だが、服装や話し方で大方の予想はつく」
「ああ…なるほど」
「人間は歩き方一つでも個性が現れるらしい。私が人間科学に精通していたなら、もっと面白い判別方法を話せるんだがね」
それは、判断できないような顔に見えるって事なんだろう。
大まかな顔の原型を留めない、肉塊の化け物。
人間の頭大くらいの大きさの肉塊、その上で脈動する神経器官と血管、クリーム色の脂肪の塊が………。
私はすぐに想像するのをやめた。
気持ち悪い………。
そんな化け物が闊歩する世界に、一人きりで取り残されたらどんな気持ちになるんだろう。もし私だったら、不安でたまらなくなって、頭もおかしくなるはずだ。
私の不安げな視線に気づいたのか、教授は古傷を撫でながら静かな口調で告げた。
「馴れだよ」
その言葉に安堵を覚えなかったのは、いつの間にか豪雨となった天気のせいか、逆光で教授の表情が伺えなかったからだろうか。
「……………」
「……おや、もうこんな時間か。もう部屋を閉めよう」
打って変わった教授の明るい声に、不安の縁に立たされた私の意識は現実へと引き戻された。
「そ、そうですね…」
「つまらない話をして申し訳なかった。気分が悪くなったかな?」
「いえ、そんな…。面白いお話でしたよ」
教授の語り口のせいで、つい彼の世界観に飲み込まれてしまったが、興味深い話なのには変わりなかった。
もしかすると、教授が傷を負った事によって、脳が足りない部分を補おうとした結果、そのような誤作動を見せているのかもしれない。そう考えた。
「ひどい天気だ。お詫びというわけでもないが、車で送ろう」
「いいんですか?どうもありがとうございます」
研究室に常備してあった傘を借り、駐車場に止めてある車に二人で乗り込む。
私の家は大学から歩いて数分のアパートだ。車ならそう時間もかからずに着くだろう。
大学を行き過ぎ、次の道を曲がればアパートの道なりという場所で信号に足を止められた。
停車中の車の中、私はふとさっきの話の続きを持ちかけた。
「そういえば先生、さっきの話なんですけど、顔が2パターンに見えるっておっしゃいましたよね?それは、普通の顔とその…化け物みたいな顔って事ですか?」
「ああ、そうだ」
「割合で言えばどちらの方が多いんですか?」
「アルチンボルドの方が多い。圧倒的に」
圧倒的に、という言葉になんとなく違和感を覚えた。
それは、疲れた時に見える顔のほとんどが、教授の言う不気味な顔に見えるという事なのだろうか。
目の前の横断歩道を渡る、傘を並べた集団下校中の子供達。
この子達も、教授の見る世界では気味の悪い化け物が闊歩するように見えるのだろうか。
「私にそれが見えるようになったのは、この傷を負った時からだ。それからずっと、正常な顔を見える人間を探し続けて来た。その人を見た時、自分が彼女に対してどう感じるのか、それを確かめたかった。そして今日……確信した…」
一瞬の沈黙。それからハッとして、顔を運転席に向けた。
私が教授の方を見たのと、教授が顔をそらして車を再発進させたのはほぼ同時だった。
車は大きく旋回し、住宅の続く路地に入り、そして私のアパートの前で停車した。
「さあ着いたぞ。今日はありがとう。明日も是非来なさい」
「はい、ありがとうございます」、そう口に出かけた言葉を飲み込んだ。
そして私は一瞬ためらい、ずっと鶴見教授に聞きたかった事を尋ねた。
「教授、どうして私にいつも作業を手伝わせるんですか?」
「…………」
「あの、私もそんなに手際がいい方じゃないし。鶴見教授のお手伝いなら、是が非でもやりたがる人は沢山いると思うんですけど……」
そう言いながら、恐る恐る鶴見教授の顔色を伺った。
だが、薄暗い車内の中では、無表情を浮かべる彼の微妙な変化を読み取る事はできない。
「別段、深い理由もない。ただ私は君と話をしたかっただけだよ。……迷惑と感じていたのなら」
私は両手を降って、とっさに言葉を遮った。
「いえ!迷惑なんてそんな、思ってもないです。ただ…、ちょっと不思議に思っていただけで」
車内へ、音もなく稲光の光が差し込む。
その一瞬の閃光の光景に浮かんだ鶴見教授の表情は、安堵の表情だった。
遅れて響いた雷鳴と共に、小さく教授の声が聞こえる。
「そうか…、ならよかった」
今まで見た事もなかった鶴見教授の安堵の表情と声音に、思わずドキドキしてしまう。
今度は、動揺を隠す余裕もきっかけさえもなかった。
「あっ明日も伺いますので…。失礼します」
震える声でドアを開ける背中へ、教授の声が聞こえた。
「ああ、待ってる」
車に向かって一礼をして別れた後、エントランスでエレベーターを待っている間にある事が頭に引っかかって浮かんだ。
『その人を見た時、自分が彼女に対してどう感じるのか、それを確かめたかった。そして今日……確信した…』
あの時、教授は何が言いたかったんだろう。
よく分からなかった。
そして、その時の私を見る教授の顔…。ほんの一瞬で、表情は見えなかったけど、あれはどんな表情だったんだろう。
それに、私は教授に自分の家を教えた事があったっけ。
(……いや、まさか。そんなわけない)
馬鹿馬鹿しい考えを振りほどき、私はエレベーターの籠室へと足を踏み入れた。
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