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彼女は忘れない。


 駅のホームで、私は必死に願っていた。

 どうか、電車がきませんように。どこかの駅で誰かが飛び込んで遅延しますように。そんな不謹慎な願いが届くはずもなく。次の通過列車が過ぎ去れば、電車が来てしまう。
 私は隣にいる尾形の手をそっと握った。尾形は私の腕を振りほどかなかった。でも、顔をしかめて私を睨んだ。

「おい、制服の時はやめろと言っただろ」
「いいじゃん。最後なんだから」

 尾形はスーツ姿。私は高校の制服姿。
 側から見ると、私たちは何に見えるんだろう。お金の関係に見えるんだろうか。
 尾形は私が通っていた塾の講師だった。付き合い始めたのは、私が高校に受かった時からだからもう2年。そして、これからもうその記録が更新される事はない。
 私はそっと横目で尾形の顔をみやった。痛々しい痣と、眼帯で覆われた右目。

「ねえ、目は? 大丈夫?」
「もう痛まねえな」
「パパが加減しなかったから。ごめんね」
「……………」
「ねえ、ちょっと見せてみてよ」

 尾形は眼帯を少しめくり、真っ赤に充血した眼球を私に見せてみせた。殴られた時、指が当たったんだろう。
 関係がバレたきっかけは、この際割合する。たかがくだらない社会的地位のせいで、この関係が終わるのが悔しくて、いらただしくて、思い出したくもない。
 尾形を殴った時の父親の顔。号泣する母親の顔。何度思い出してもなんだか滑稽に感じてしまった。でも、実際の私は自分の父親に怒鳴られる父親の声を、扉の向こうで聴きながらずっと泣いていたんだ。
 結局、親と尾形の話し合いで終わったが、尾形がこれ以降、私に近く事があったら、警察を呼ぶと言っていた。でも、なんの罪で?私が卒業すれば、もうお終いなのに。

「尾形、卒業したら絶対に尾形のところに行くから。忘れないでね」
「さあな。忘れてるかもな」

 私は尾形の顔を睨みつけた。

「こういう時にふざけないで」
「…俺じゃねえよ、お前だ。どうせ数年も経てば、俺の事なんて忘れる。全部忘れて楽しくやってろ」
「はあ、本気?」

 私は計るような目で尾形の顔をみたが、右側から見る尾形の顔は、眼帯で隠れているせいでよく分からなかった。

「……イヤだ」
「我儘言うな」
「そんなの、絶対にイヤだ。ねえ尾形。本心じゃないよね。本当は忘れて欲しくないって、そう思ってるんでしょ?」
「………………」

 尾形は黙ったまま、見下ろすように私の顔を見た。

『只今、電車が通過します。黄色い線の……』

 相変わらず、尾形の表情から感情を読み取るのは難しい。ただその時、私はイヤな予感を感じていた。まるで引き込まれそうな真っ黒い目を見つめている内に、尾形が笑っているのに気がつく。

「……………………………ったりまえだろ」

 小さく呟いたその言葉は、線路が擦れる音でよく聞こえなかった。

「なんて言ったの?」

 近づいてくる電車の轟音に負けないように、私は声を張り上げた。その瞬間、尾形が私の腕を強く握った。

「え?」

 ぐいっと体が引っ張られる。

「じゃあな」

 さっきよりも大きな轟音の中で、尾形の別れの言葉ははっきりと聞こえた。私と手を握ったまま、尾形の体が線路の上を舞う。
 線路とホーム。
 彼岸とこちら側。
 それが、私が腕一本先で繋がっている。

「尾形!」

 指先に衝撃が伝わる。たったそれだけでも死ぬに足ると理解できる衝撃だった。重力に引っ張られ、線路の下で何かが砕ける感触が骨に伝わる。

「ひっ…!」

 顔に何かが吹き飛んで、私は思わず目をつぶった。それと同時に、ホーム中に悲鳴が響き渡る。

「……………………」


 これが、私が電車に乗れなくなった理由。
 今でも線路が唸る音を聞くだけで、めまいにも似た戦慄が走る。

 1人の母親になった今でも、その呪いは続いている。

 尾形は、私の支配の権利を得たのだった。

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