中高と部活を共にした白石からの久しぶりのメールは「今週空いとる?」という実に簡素なものであった。受信ボックスを開いたまま暫く停止してしまう。白い画面に並ぶ六文字とクエスチョンマーク。これはわたしに聞いているのだろうか。もしかしたら送り間違えとか?そうだとしたら、わたしが返信するのは酷く躊躇われた。彼女とかへのメールだったらどうしよう。電話して聞けばいいのだろうけど、何しろ高校卒業以来は一度も会っていないのだ。謙也とは2回ほどコンビニで会ったのだけれど。電話にしろ、メールにしろあんなにふざけあった仲だとしても、変に緊張してしまうわたしがいた。



ヴーッという低いバイブレーションにキッチンでぐつぐつとパスタを茹でていたわたしは、慌ててソファの上の携帯を掴む。着信だ。画面表示は「白石」で、柄にもなく心臓が高鳴った。ひとつ、ゆっくりと深呼吸をしてから通話ボタンを親指で押した。

「…もしもし」
「俺やけど、元気?」
「おん、白石こそ」
「久しぶりやなあ、声も変わっとらんわ」

携帯の向こうで白石がクスクスと静かに笑うのが分かった。白石こそ何も変わっていないようで、なぜか少し安心する。久しぶりの友人の声はわたしを過去の思い出に浸らせてくれた。

「今週空いとる?」

ああ、さっきのメールは私宛で正解だったのか。そうなると返事をしなければならない。チラリと白い壁に掛けられたカレンダーを見れば、今週末は特に書き込みもなかった。そういえば仕事も休みだし、家でゆっくり映画鑑賞でもしようと思ってたことを思い出した。

「空いとるよ」
「じゃあ、久しぶりに遊びに行かへん?」

少しいたずらっぽい口調の白石の言葉は、以前わたしが聞いた言葉に似ていた。中学生の白石、高校生のちょっとだけ大人びた白石、そしてわたしが見たことのない大学生の白石。どれだけ年を重ねてもその透き通るような声は未だ何も変わってはいないのだ。

「ええね、行こ」
「よかった」

酷く懐かしい声はそう言って笑った。





カチャリとシートベルトを締めて、右隣の白石の方を向く。わたしは彼が運転しているのは初めて見るのだ、もちろんめずらしくて仕方がない。そんなわたしの不自然な行動に気付いたのか、彼はこちらを向いて少し困ったように笑う。

「どないしたん?」
「…別に何でもあらへんよ。ただめずらしいなあって」
「まあ、そりゃそうやなあ。俺とお前、高校卒業してから一度も会っとらんし」

低いエンジン音が聞こえて、ゆるやかに車が動き出した。振動が少なく、彼に似合ったいい車だと思った。わたしは外を過ぎ去ってゆく景色に視線を移す。車内には静かな音楽がひっそりとかかっていた。洋楽だろうか、わたしは知らない。

「ねえ、どこ行くん?」
「美術館」

お前、好きやったやろ?カーブを曲がるために、ハンドルを右側にぐるんときりながら白石は小さく呟いた。少し驚く。確かにわたしは美術館が好きだし、美術の授業も大好きだった。でもそれはずっと前、わたしたちがまだ中学生のときにしか言っていないような気がした。彼はその一言を覚えていてくれたのだろうか。



奥地に身を隠すように建った小さな美術館に入ると、ひんやりとした空気がわたしたちを密やかに包んだ。その吹き抜けのロビーには疎らに人がいるだけで、隠れ家のようにこじんまりとした様子である。コツコツ、わたしが歩く度に壁に反響するかたい足音。ヒールなんて履いてくるべきじゃなかったなあ、と少しだけ後悔した。
ふと、一枚の絵の前でわたしたちの足は自然と止まってしまっていた。それは大きな額には収まりきれないほど紙いっぱいに描かれている、鮮やかな海の絵だった。青や藍、黒や白などといった実にありきたりの色のはずなのに、何度も何度も執拗に重ね合わせられた筆の跡は、打ち寄せ、そして砕け散る波を見事に表現していた。静かな海なのか、それとも荒い海なのか、夜なのか、朝なのか。どちらともにとれるタッチは繊細であり、尚且つ堂々としている。

「…すごい、」

圧倒的、それとも魅力的なのだろうか?いや、違う。どんな言葉でさえも似合わない。声や言葉などこの絵にはただの安い飾りに過ぎないようでもあった。
わたしたちは何も言えないまま、その絵の前で静かに呼吸を続けている。



カチャリとカップを置いて、白石は伏せていた視線をあげてわたしを見た。正確に言えば、わたしの持っているポストカードを見たのだけど。美術館を出て少し歩いたところにあった小さなカフェ。コーヒーのいい香りが鼻を掠めたのと同時に、手作りケーキという文字を発見して、思わず白石を連れて入ってしまったのだった。

「白石」
「ん」
「どうしたん?」
「何が?」
「…なんかあったんやろ?」

店の中は静かながらも、様々な音に満ちている。コーヒーをコップに注ぐ音、雑誌をめくるような音、お客さんたちの密やかな話し声。そのたくさんの音の中で白石の息を飲む音の輪郭だけは妙にくっきりとして見えた。ポストカードがぱらりと指から落ちて、机の上に散らばる。

「…ほんま、お前だけにはかなわんなあ」

そう困ったように笑うのは高校の卒業式のとき、最後に見た白石とは全く違ってしまっているようにも見えた。彼は昔のような男の子ではなく、もうすっかりと男の人になってしまっているのだ。

彼の左手が机の上のポストカードにゆっくりと触れた。白く整った指がそこに描かれた海をなぞってゆく。その指先はわずかだが、確かに震えていた。わたしはその手の上に、自分の手のひらを静かに重ねる。なぜか、こうしなければいけない気がした。ハッと弾かれたように顔を上げた白石の視線とわたしの視線が交わり、ほろほろと溶けてゆく。彼は泣いているようにも見えた。

わたしは目を閉じる。そしてゆっくりと開ければ、目の前に広がるのは怖いぐらいに美しい海であった。





そうして
わたしは海へと
帰還していきます


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