淡い春の匂い。
不意に足を止めれば、一輪だけ花開いた桜が独り寂しげに揺れる様に気付く。
桜の木が満開になるときまで、一輪、こうして花弁を踊らせているのだろうか。
きっともうすぐ他の蕾も咲き始める。一足先に春めいたこの花は、散るときもまた早くあるのだろうか。花に心などないかもしれない。けれどこの一輪は、憂いを帯びながらも凛と咲くような、どこか人間らしさを感じさせる花だと思った。

「儚いなァ…」

感じたままに声が漏れていたのだと思い、さっと唇に手を当てる。だけど、低く語尾が伸びたこの声は私のものではない。横目で気配を追えば、そこには柔らかそうな栗毛が見える。中性的にも思える美しい横顔に、この声は真選組一番隊隊長、沖田総悟のものだと理解した。
彼の視線の先には先程の桜の花。普段はあまり良い噂を聞かない彼らだけど、花を愛でる心を持ち合わせていることに普通の人間らしさを感じて、私の心もほんのり春めいた気持ちになった。

「でも、そこが綺麗…」

「そうだねィ。あんたもそう思う?」

小さな声で呟いた独り言に返事が返ってきたことにも驚いたけれど、先程まで少し離れた場所で桜の花を見つめていた大きな瞳の中に私が映っていることに動揺して息が詰まる。
綺麗な顔。真選組一番隊隊長という肩書きを忘れてしまいそうなほど、線の細い男の子。後ろに佇む桜の淡色の蕾がより一層彼を引き立てて、それがこの世のものとは思えぬほどの神々しさを醸し出しているようにも思えた。
彼から見たら、私はどんな滑稽な表情をしているだろうか。きっととても気の抜けた顔だ。でも視線を逸らすにはあまりに真っ直ぐ見つめられていて、声を出すにはおこがましく思えて、これは多分一瞬なのだろうけど、何秒もこうしているような錯覚さえする。
呆然とする私を他所に彼は緩やかに視線を外し、無駄のない動作で一輪だけ開いた花に手を伸ばした。ポキッと小気味よい音がして、彼はその花の匂いを嗅ぐように目を細める。
私はそれを見つめることしか出来なかった。

「あんたに」

差し出された桜の花は、手折られて悲しむようにはみえず、むしろ彼にそうされるべきであったように、先程よりも生き生きとしてみえた。
私はつい、反射的に手のひらを差し出す。そっと渡される桜の花、彼の指先はなんだかやさしい。

「でもひとりぼっちじゃ、桜も可哀想だろィ?」

ヒュウ、と柔らかな風が枝を揺らす。口角を上げて、その言葉だけを置いて歩いていく彼に、掛ける言葉が見つからなかった。
黒い隊服を背負った、凛とした背中が遠のく。気紛れだろうか。一時の暇つぶしだろうか。それともこれは、私がみた幻だったのか。そんな非現実的な事を思うほどの、浮ついた気持ちで溢れている。
一輪だけ先に花開いてしまった、ひとりぼっちの桜の花。彼なりの気持ちだったのだろう。それを言葉にするのなら、"やさしさ"の四文字に形容されるのだと思う。
折られた花は一日も経てば枯れてしまう。この花に心が在るならば、もしかしたら、手折られたことを悲しんでいるかもしれない。嘆いているかもしれない。
だけど、いま、手のひらで揺れる桜は美しく、とても可憐だ。
私にわかるのは、ただそれだけだった。



2017.3.30
一万打企画「優しい沖田」