かの文豪、夏目漱石は自身の代表作の中にて、"恋は罪悪ですよ"と言っている。
それは、私たちが追い求める理想の果ての真実なのだと、文章を読み進めながら、昔の私はそう解釈をしていた。
それを読んだのはもう随分前のことなのに、自分がそんな感情を抱き、同時にきっと私に降りかかることはないものだ、と心から思ったことを、やけに覚えている。
ちゃんと恋なぞ知らないくせに…いや、知らないからこそ、私はその言葉に、感銘を受けたのかもしれない。


「ねえ、真選組の沖田総悟さんって知っている?」

耳を擽る、そんな台詞から始まる恋愛話。
女子特有の楽しそうな高い声に、私は何の気なしに溜息をついた。
柔らかな陽射しから逃げるように、木陰の席で団子をほったらかしにしながらなされるこんな女子会は、とても楽しそうで、なんだかとても勿体ないように思えて仕方ない。
こんなに優しい太陽の光は珍しいし、お団子だって出来立ての方が美味しいし、ずっと、誰がかっこいいだの、好きだのと話をする楽しさは分かるけど、ゆるやかに流れる雲が青空を飾るこんな素敵な天気の日には、当てもなく散歩をしてみるのが一番楽しいんじゃないか…
私は、楽しそうな彼女らを横目で見ながらそんなことを少し、考えた。
話に花を咲かすその場には似つかわしくない、無粋な考えかも知れないけれど。

「…え、見て、あそこ!」

突然、一人の女の子が大きな声を出し、ある方向に向けて指を差して固まり、それを見たもう一人の女の子も同じようにそちらを向いてこれまた同じように固まる。
傍から見てなんとも滑稽なその光景に、指の先に何があるのか興味をそそられた私は彼女らが凝視する方向を横目で見ようとしたが、ふわっと吹く風がやわやわと髪を靡かせて、前髪を無造作に持ち上げた為に私は反射的に目を細めた。
瞼を閉じる一歩手前、ギリギリ目が開いている時くらいが一番光が眩しい。

「沖田さんだ…!」

きゃあきゃあ、と途端に上がる彼女らのテンションに、"真選組""沖田総悟"と名前だけは知っている彼がそんなに美形なものかと段々と好奇心が湧き出てきて、私はゆっくり瞼を開き、その双眸で彼の姿をしかと捉えた。
瞳はピントを合わせ、柔らかな陽射しはいつも以上に見える景色を鮮明に映し出す。

「あ…」

思わず溢れた私の言葉は、とても情けない声だった。
サラリと流れる栗色の髪、整ったその顔立ちは、いつか見た美しい女性の弟であろう、真選組のあの男の子だ。
雲間から見え隠れする太陽が気紛れに地を照らし、その優しい光によって彼の色素の薄い髪がキラキラして見え、元から綺麗な顔立ちを、より一層整って見せているような気すらする。
こんな綺麗な男の子が、まさかあの真選組一番隊隊長、"沖田総悟"だったなんて、と私は驚きを隠せずにいた。
団子屋でアルバイトを始めてから数ヶ月は立ち、世間話もよく耳に届くが故に名前こそは知っていたが、この事実は私の思考を止めるに値するくらいのものであった。
風はそら見たか、とでも言うように髪を撒き散らし、私は彼を気にしながら、更に話し込む彼女らを余所目に、彼…沖田さんを見ながらフリーズする。
驚きも勿論あったが、以前の今にも崩れ落ちてしまいそうな悲しげな表情の彼しか知らなかったから、私は以前見た時とは違う、どこか新鮮な気持ちで彼を見つめていたのだ。

(きれいな、かお。)

太陽に透ける栗色の髪も美しいが、やはり彼には夜の方が似合うのではないか、と漠然と思った。
それは始めて見た彼の姿が、あの星空にとても似合っていたからなのかもしれない。
だけど、確か彼はお日様のような匂いを纏っていて…夜が似合う癖にお日様の匂いがするなんて、不思議な人だ、と私は柔らかい陽射しの元で佇む彼を見ながらそう感じた。
やっぱり、こんな日には木陰で話に花を咲かすより、何も考えず散歩にでも行くほうが、きっと楽しい。
私は再度、やっぱりそうだと自分の考えを認識した。

「沖田さんを見れるなんて、幸せな日だねー!」

そんなふうに笑い合いながら団子屋を後にする彼女らを、私はゆっくり頭を下げながら見送る。
言葉の通り、確かに、とても幸せそうな笑顔だった。
何でだろう、と私は悩む。
こんな柔らかな光が射し込む日には太陽の下にいたい、と思うのに、また一方の心で、木陰で幸せそうに話に花を咲かす彼女らを羨ましく思う私もまた、存在していたからだ。
それはまるで、無いものねだりをする幼児の心理にも似ているような気がした。

(敬遠しながらも、焦がれているのもしれない、それに)

私は一瞬、もうどこかへ言ってしまった沖田さんの後ろ姿を思い浮かべたが、すぐに思考するのを止めた。
柔らかな陽射しはゆるやかに私に熱を与えてくる。

何を考えようとしてたんだっけ、思い出せない、きっとくだらないことだから。