午後2時を少し回ったころ、私は彼の帰りを、甘いお菓子と良い香りのお茶を用意しながら彼の部屋で待つ。バタバタと騒がしくなる屋敷の中に、我ながら今日もいいタイミングだ、と自画自賛したときだった。勢いよく部屋に彼―――景吾さまが現れる。



「お帰りなさいませ」

「結婚しろ」



返事のひとつもできないのか、なんて今更思わない。彼はいつも返事の代わりに上の言葉をいうのだ。そもそも、私達はそういう台詞を交わすような甘い間柄ではない。ただの雇い主の息子と雇われ(バイト)のメイドである。それなのになぜそんな会話がされているのかというと、


「約束忘れてないだろうな、アーン?」

「……」



そう、約束である。

約十年くらい前、私が小学一年、彼が幼稚舎中学年のときだ。今はメイド長をやっている母の手伝いをするためにと呼ばれ、景吾さまの遊び相手をしたときのこと、にこにこと可愛らしく笑う景吾さまを、なんだか弟のように思いながら遊んでいると、ふいに名前を呼ばれた。

「なあに?」

「おれさまのよめになれ!」

「お嫁さん?」

「ああ!」

「うん、いーよ」

小さい子特有のわがままで可愛らしいなあ、と二つ返事でしてしまったのだ。…それが、間違いだった。思い直せあの頃の私!もう可愛かった景吾さまはいない。目の前にいるのはただの……いやただのではない、中三と思えない色気を持ち合わせたイケメンである。


「なにが不満なんだ?」

「…景吾さま、制服を」

「幸せにしてやる」


どこで覚えてくるんだそんな言葉。ていうかよく言え……いや、外国育ちだもんなあ。しかしまだ中三であるから結婚なんてできるわけない。ベッドに腰掛けながらブレザーを脱いでいる景吾さまの近くに、ハンガーを持ちながら近づく。受けとった瞬間、手首を捕まれた。



「景吾さま、ブレザーを」

「なあ、どうなんだよ」

「早くシャワーを浴びてください。風邪をひいてしまいます」

「ごまかすな!」



びっくりして、体が硬直してしまう。景吾さまは、余裕のない、不安そうで、少しだけ苛立ちを含んだ瞳を向ける。



「本心を言え。俺が嫌か?」

「…そうでは、ありま、せ、ん」

「ならなんだ」

「っ、」

手首を引かれ、思わず景吾さまの腕の中へ飛び込んでしまった。がっちりと抱き留められ、身動きが取れない。……本心。

嫌いか好きか、でいったら好きだ。けど、今の景吾さまに戸惑っている。年上の私より大人っぽくて、余裕があって。正直なにを考えているのかわからなくて、少し怖い。「結婚しろ」といつも言うけれど、私をからかっているのだろうか、とか、本気だとしても身分が違うし、それは思春期特有の思い違いであると疑ってしまうのだ。



「わからない、です」

「なにがだ」

「私も、…景吾さまのことも」



ぽつり、と漏らすと景吾さまは耳元でふっと吐息を含んだ笑いをした。真剣に悩んでるのに、と眉を寄せると、ふいに景吾さまに頬に触れられ目を合わせられた。


「お前は俺が好きなんだろ?」

「っ…、でも、」

「認めちまえよ」



好きだ、と小さく呟いて唇が重なった。「嫌なら言え」と言ってすぐ、ベッドを背中に感じ、目の前には景吾さまとその後ろに天井。ばくばくとうるさく鳴り響く心臓に、景吾さまの優しい指先が唇に触れて、そこから熱がじわりじわりと私の体を満たしていく。―――これは、



「景吾さま、」

「なんだ」

「お茶が、冷めます」

「そうだな」



ふっ と艶やかに笑って、景吾さまが顔を近づけてきたから、私は黙ってそっと目を閉じた。キスの合間に、「好きです」と小さく小さく呟いたとき、「待ってたぜ」と柔らかく微笑んだ。その優しい笑い方は昔から変わっていなかった。

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