蒸すような暑さもなく、ほどよい暑さと日差しを保っていた放課後、宍戸は一人でラケットの手入れを部室でしていた。


 高校に上がって二年と半年が経っていた。大会がすぐそこまで迫っていて、みんな緊張することもなく平然と自身の技を磨いている。その姿はきっと誇れるほど努力を積んで来たからであろうと、宍戸は分かっていた。分かっているからこそ、不安にもなる。自分も限界を追い求め、努力をしてきたけれど、通用するのだろうか、と。焦りすぎて、部活が始まるだいぶ前に部室に着いてしまったのだ。どうにもラケットが気になってしまって、宍戸は何度も何度もラケットと向き合っていた。


 その瞬間、ガチャ、とドアが開かれた。誰だろうと顔を上げると、そこには瞳を丸く見開いているカナがいた。カナは宍戸を見て腕時計を見やる。その行動に宍戸が「なんだよ」と唇を尖らせると、「あ、ごめん」と笑ってカナが部室に入った。
 カナはすでにジャージに着替えて、中学のときより伸びた髪の毛をポニーテールにしていた。それはとても彼女に似合っていて、あの髪型を自分もやっていた かと思うと、少し気恥ずかしくて目だけ背けると、カナは仕事の用意をしながら「だって、」と続けた。


「だって、亮、今日はやいよ」

「俺だってそういうときくらいあるっつうの」
「そうだね」

「………大会って、いつだっけ」

「再来週」


 ガットから宍戸の掌によって音が立つ。がり、と小さ目の音も、静かな部室に十分響いた。「亮」そっと顔を上げると、宍戸の目の前にカナが立っていた。宍戸の少し荒れている大きな掌の上に、カナの小さめな白い掌が重なる。あたたかい。宍戸はただそう感じて、カナの瞳をじっと見つめた。

「だいじょうぶよ。」

 そう綺麗に微笑んだカナの言葉が、すとん、と宍戸の心に落ちる。重ねられた掌の温もりがゆっくりと彼の 掌から、体へ、脳へ、心へと広がっていく。それが心地よくて、柔らかな微笑と共に向けられた強い意志のある瞳が、宍戸を抱き締めるように抱擁しているようにあたたかだった。














 最後の試合が終わって、みんなそれぞれの思いを抱きながら帰路につく中、宍戸は一人、ストリートテニスのコートに向かっていた。あの跡部でさえもさっさと家に帰ったけれど、宍戸は家に帰る気にはなれなかった。あの試合に、いまだに蟠りを感じているのだ。もやもやと煮え切らない。あそこでもっと走れたら、もっと打てたら、技術が、体力が、経験が、やる気が。考え出したらキリがない。とにかく宍戸は、まだテニスがしたかった。

 ―――着いてみるとそこには誰もいなかった。それもそうだろう。もう既に日は落ちていて、更にここには照明がない。もう少し離れたところに 新しく作られたところに流れたのだろうと推測して、宍戸はラケットとボールを握り、壁の前、コートの片面に立った。

 瞳を閉じればすぐに思い浮かんでくる。鮮明に、色濃く刻まれているのだ。無意識にサーブの形に入り、そこからはもう打って、打って、打ち続けていた。疲労が 溜まっている体に鞭打っているからか、上手く動かないことに苛立ちながら、宍戸はそれこそ無我夢中にテニスボールを追っていた。

 不意に、ボールが検討違いに跳ね返り、宍戸を横切った。面倒くせえ、と舌打して振り返ると、ボールが誰かに拾われる。


「よい子はもう家に帰ってご飯の手伝いをする時間だけど?」



そこに、カナはいた。
悪戯にそう笑って、カナは宍戸にテニスボールを投げた。彼女も先ほど部員たちと別れたときと同じ服装―――制服にジャージを羽織った姿のままだった。奥歯を噛み締め、昼間のことをあまり思い出さないように視線を下にした。


 そういえば、彼女は泣いていなかったな、と宍戸は思った。悔しくはなかったのだろうか。他のマネージャーがすすり泣く中、カナだけはじっとコートを睨んだままだった。悔しくない、ということはないのだろう。ただ、彼女はその悔しさを吐露するタイミングを、持ち前の変な不器用さ故に失っただけだ。一瞬でも彼女の気持ちを否定してしまったことに自己嫌悪して、もっと視線を下げた。


「亮」

 いつもと同じ、綺麗なソプラノ声が自身の名を呼んで、宍戸は目頭が熱くなるのが分かった。一歩、と近づいてくる彼女に向かって、「来るな」と言う。なんて情けない声だろうと思ったけれど、どうにも泣いているのは見られたくなくて、左腕で顔を隠す。それでも、彼女は一歩、また一歩とその歩を止めない。来るな、くるな。ふと、ラケットを握る拳を、彼女の手が覆った。


「頑張ってるの、ちゃんと伝わった。」

「…ああ」

「でも氷帝は、負けたわ。」

「…ああ」

「悔しいね」


 静かに、静かに敗北という事実が体にしみこんで、悔しさが湧き上がってくる。「くそ、」と涙を拭い、カナを見ると、彼女も泣いていた。大きな瞳から、とめどなく涙が溢れている。


「泣いてんなよ」

「ああ、激ダサ?」

「ダサくなんかねえよ」

「じゃあ亮も、ダサくなんてない。かっこよかったよ。」

「……ありがとな」

「亮は頑張ってた。みんな頑張っていたのに、私が、…私は」

「お前、頑張ってただろ。ちゃんと知ってる。」


 いつか彼女に言われたように、宍戸もその瞳を見ていった。カナは微笑みながら、泣き続けた。

 「くやしいね」と言って、俺の拳を強く抱く。「そうだな」そのままただカナを見ていると、ぐしゃぐしゃに歪んだ泣き顔を、彼女は今更恥ずかしく思ったようで必死にジャージで拭っていた。 それに帽子を被せ、帽子の鍔をぐい、と下に下げた。「わ、」と漏らしたその唇に、宍戸はずっと隠していた熱情を、自分の唇に乗せて伝えた。帽子に隠れながらも、ほんのりと色づいた頬が見えた。


 暗闇でも分かるくらい、側にいた。宍戸はカナの反応に、不思議と不安はなかったから、ただじっと次の言葉を待つ。離される事のない重なる手が愛おしくて、ただここに自分がいて、カナがいるこの瞬間は宍戸にとって満ち足りた時だった。


「亮、」

「なんだよ」

「わたし、…来年、関西に引っ越すの」

「は?」

「ごめん…」
そっと帽子を返されて、宍戸はただその動作ひとつひとつをじっと見ていた。







「さよならは上手じゃない。だから、お願い。…もう一度だけキスして。」

「え、」

「私の気持ちを亮が知ってるように、亮の気持ちも私は知ってる。」

「…」

「亮」

「………好きよ、ずっとずっと、大好きだった」


 そう言って、カナはもう一度違う涙を流しながら、背伸びをして、宍戸の唇に自身のを重ねた。

 まだ終わりじゃない。離されようとした唇に噛み付くように、宍戸はキスをする。まだ、まだ、待って。好きだった、と過去形で言う彼女は、今、宍戸を思い出にしようとしている。宍戸は悔しくて どうしようもなく、カナを強く抱き締めた。


「いつもありがとな」


 自分の変化を一番に気付いてくれるのは、いつだってカナだったことに、宍戸は感謝していた。そのことを耳元で小さく言うと、カナは宍戸の背中に手を回し、少ししたあと離れた。


「じゃあ、またね」

「……ああ、また」

 またね、と去っていくカナの顔はどこか晴れ晴れとしていた。悲しそうであったけれど、きらきらと笑っていたのだ。宍戸も、立ち止まってはいけないと踵を返し、帰路についた。


 あの努力も、栄光も、屈辱も、彼女への熱情も、全て思い出に変わっていくことは寂しいけれど、宍戸はゆっくりとした歩調で、それら全てを噛み締めながら 家への道を進んでいた。


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