グラウンドがあたたかな空気に包まれるなか、宍戸は、ひとり微かにひんやりとした教室で悶々としていた。

 まだ中学校生活が始まったばかりだというのに、新教科である英語の小テストが行われ、 宍戸はそれにみごと不合格になってしまったのである。彼がミスしてしまった単語は「lunch」 で、そもそもミスはしていなかったのだが、字が汚くて「u」を「a」と先生に認識され、 見事なバツをつけられてしまったというわけだ。それ以外にも文法のほうでも間違えてしまい、居残りでレポート提出を言い渡されてしまったのだ。


「(最悪だ…!)」



 パコン、パコン、と黄色いボールを打ち返す音が聞こえる。早く自分も行きたいのに終わらない。くそくそ、と 岳人のような悪態をついてしまいたくなるが、何せ一人の教室なので、宍戸は頬杖をついてむくれるだけだ。手が、疲れた。

 そっと窓越しにすぐ近くのテニスコートを見ると、跡部がちょうどこちらを見ていて、目が合う。しかしすぐ戻され、跡部は誰かを手招きしている。「(なんだよ…)」そこに集まったのは岳人と忍足と、マネージャーのカナで、跡部が宍戸を指を指したのと同時に、三人はそれを追い、先にいた宍戸を見てげらげらと大声で笑い、手を大きく振ってきた。跡部は鼻で笑っている。むかついたので高速でレポートを終わらして、じんじんとシャーペンの握りすぎで痺れる手でラケットバックを掴み、ありったけの力で廊下を走る。職員室で先生にレポートを提出し、また止まらずに走る、走る。


 部室は、すぐそこだ。



「宍戸!」



 ふと、目の前の到達地点である、部室からカナが笑顔で出てきた。出てきた、というよりは、扉から体の上半身だけをこちらに向けている。はやく!と大きく彼女が手を振るたびに、セミロングがちらちら揺れていた。



「お前どした?」とぶっきらぼうに言いながら入ると、

「待っててあげたのにー」と頬を膨らませて足を蹴られる。

「着替えながらでいいから、今のところまでのメニュー言うね」

「あ、おう。」



 アップはー………、とつらつらとノートを見ながらカナは述べていく。聞いていると昨日とあまり変わらないメニューだったし、全部言われても頭に入らないので、宍戸は軽く聞いている程度だった。それを知ってか、カナは途中で「まあ、分からなくなったら私か、先輩に聞いてね。跡部には特に宍戸のこと、任されてるし」と 笑った。跡部も、きっと宍戸があまり記憶力が優れないのを知っている。嬉しいような、悲しいような。髪を結びなおそうにも、少しまだ しびれていて、できそうにない。

 ……まあいいか。「あ」とカナが声を上げた。


「宍戸、手がしびれてるんでしょ、私もよくなるー」

「え、なんで分かるんだよ?」

「だって、いつもなら髪の毛、結んでから行くじゃない」

「ああ、……よく知ってんなあ」


 さすが一年担当マネージャーだな、と茶化すように笑うと、カナはほんのり頬にピンクを乗せ、「そりゃあ、知ってるよ」と笑った。微かにできる笑窪と、笑った口元から覗く八重歯に、思わず目が行く。つられるように笑みを零した宍戸は、気恥ずかしくなって 、ラケットを握り足早にコートに向かった。






 バタン、と閉まった扉をカナが開けてコートを見ると、跡部に怒られている宍戸がいた。きっと、カナが言ったメニューを忘れて早速打とうと跡部に声を掛けてしまったのだろう。罰の悪そうに跡部に背を向け、走り出す宍戸の背中は、カナがを柔らかい表情で見つめていたことなど知らずに、あっという間に駆けて行った。









「あー最悪だったぜ!」

「ばっかだなー亮!な、忍足?」

「せやなあ……lunchのスペルの間違い方、教えて欲しいくらいやで。自分ボケの才能あるんちゃう?」

「ほっとけ!」

「宍戸…字、汚いもんね……」

「カナの字が綺麗すぎるんだよ!俺は普通!」

「そりゃ書道習ってるもーん。……って、ジローくんは?」

「起きないから跡部の車に送られるらしいでー」




 なるほど、と納得するカナの横で、宍戸はいまだ岳人に笑われていた。言い返せないから、唇を尖らして宍戸は徹底的に岳人を無視するが、いまだ彼の笑いは絶えない。

 いつも部活帰りは 五人か四人だ。変動するその一人は大抵芥川で、今日がいい例。前にカナと宍戸、後ろに岳人と忍足の二列で帰るのがお決まりのパターンとなっている。


 そのまま歩みを進めていると、ぎゃあぎゃあとうるさく話す岳人と、それに静かに笑いながら相槌を打つ忍足を後ろに、カナはじっと宍戸の掌を見つめていた。それに気付いた宍戸が「なんだよ?」と言うと、カナはなんでもない、と目を逸らした。宍戸はそれにあまり気にせずになんとなく振り返ると、岳人たちとだいぶ距離が開けていた。おっせーな、と思いながらまたカナに視線を戻すと、これまたカナが宍戸の手を見ていたのでもう一度、なんだよ、と声をかけた。



「…宍戸、頑張ってるね」

「え、」

「前より筋肉ついたでしょ。……わかるよ」

「え、まじかよ?」



自分の努力に気付いている人がいる、ということに嬉しくなり、宍戸は素直にカナに感謝をした。 マネージャーってすげえな、と漏らすと、耳を真っ赤にさせながら、「宍戸だから分かる」と 呟いた。宍戸には聞こえなかったようで、「なに?もっかい」とせがまれたカナは、恥ずかしくて 顔ごと逸らした。


一方で宍戸は、夏が迫っていることを匂わせる生ぬるい風が、カナの柔らかい髪の毛を揺らしているのをとらえた。ほんのり汗で 滲んだカナの首筋から、宍戸は、勢い良く目を伏せる。じわじわと赤くなる頬と加速する動悸を、岳人と忍足の話し声に隠すように、したを向いて歩いた。











 部活が終わった後の部室は、全員の自由な雑談によって騒がしくなっていた。そんなむさくるしい環境の隅っこで、ソファーの横にある マネージャー専用の机と本棚のところで、小さく は作業をしていた。年頃の男子なら、互いに裸(とはいっても男の上半身だけだが) を見せるのには抵抗があってもいいはずなのだが、相手はもう世話を焼いてもらっている母親のようなマネージャーであるので、いまさら気にもしない。カナも大して気にしてはいないので、黙々と作業を行っている。


 ふと立ち上がり、一番上に 置かれたファイルに手を伸ばした―――が、手が届かない。つま先を伸ばし、手の指先までぴんと伸ばしても、一向に届きそうにないのだ。


「届か、ない、」

「は?どれ?」


 小さく呟かれたそれに、カナはまったく返答を期待していなかった。そんな言葉に返事をしてくれたのは宍戸だった。

 シャワー後だからか、いつもは綺麗に結ばれている髪の毛が、無造作にゴムによって束ねられて少し違和感を感じる。カナが一瞬固まってしまったが、宍戸がそんなカナを不思議に思い、もう一度「どれだよ?」と 聞くと焦ったように は「あの、あ、赤の、」と指差す。顔を真っ赤にさせてあまり宍戸を見れない。しかしそんなことに宍戸が気づくわけもなく、さっさとファイルを取ってカナに手渡すと、すぐにロッカーへ戻る。


「あ、ありがと!」

「おー」


カナは赤いファイルをぎゅうっと握って、覚束ない手つきで開いた。一方宍戸は、隣に立ったときの身長差、体格差に気づいて、――ああ彼女は女なのか、――なんて当たり前のことに宍戸は気づいた。誰かに守られるべき存在だということにも、気づいた。あの細く白い腕も、両の笑窪も、ちらりと除く八重歯も。 少しだけ触れた指先に、宍戸は僅かな温かみを覚えた。

 ……彼女を守るその誰かが、自分であればいいのにだなんて。(とんだ馬鹿だ。と頭を振った)


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