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 一歩入っただけなのに、森の中は一瞬で静寂が訪れた。時折、葉っぱが風に揺れてカサカサ鳴る音や木々のざわめく音、遠くから聞こえる鳥らしき鳴き声が耳に伝わってくる。校庭に居た時は吹き荒ぶ風の音しか聞こえなかったのに、静かなのに様々な音が聞こえるというのはかなり不気味だった。
 そういえば、どうして森に入らないといけないのかについては聞いていなかった。森に入らないとならないというより、蜘蛛を追い掛けなければならないの方が正しいだろうか。
 先程ロンが言った事は実は当たっていて、名前は内心で、夜の禁じられた森に入るという事にワクワクしてはいた。彼らの頼みは、名前にとって格好の口実ではあったのだ。夜間に禁じられた森に入るという口実に。正直、夜中に森に入れるだけで名前は満足できていた。しかし、彼らがどうして校則を破ってまでこんな所に来たのか、まったく興味が無いわけではない。
「ね、どうして蜘蛛を追い掛けてるの?」
 隣を歩いているロンを見上げて聞いたのだが、ロンは答えなかった。
「ロンは蜘蛛が嫌いなんだ」と、ハリーが言い、そして名前の質問に代わりに答えた。
「僕達、ハグリッドの無実を証明したいんだ」

 それからハリーが語った事は、名前にとって信じられないことだった。彼は、五十年前にも一度部屋が開かれたのだと言った。
「……どうしてそんな事を知ってるの?」
「マルフォイが言ってたんだ。ほら、クリスマスに会っただろう? あの時、マルフォイが教えてくれた。僕らに言ったんだ――あいつは、クラッブとゴイルに言ったんだと思ってるけど――五十年前にも部屋が開かれて、その時は生徒が死んだって」
 名前は息を呑んだ。
 ――ハリー達は以前、マルフォイがスリザリンの継承者なのではないかと疑っていた。そしてポリジュース薬を密造し、クラッブとゴイルに変身してスリザリン寮に侵入し、マルフォイからスリザリンの継承者の正体を聞き出そうとしていた。しかし、もっと悍ましいことを聞き出していた。前にもこうして襲撃事件が起きたのだ。マグル生まれの生徒を追い出そうとして、ホグワーツで殺人が起きた事が。
「でも……それがどうして、ハグリッドが連れていかれた事と繋がるの? それって関係ないでしょ、だって、五十年も前の事なんだから……」
 名前はそう言いながらも、薄々感付いてしまっていた。
「五十年前、生徒を殺した犯人として捕まった生徒がハグリッドだったんだ」ハリーが静かに言った。
 名前は絶句した――ハグリッドが魔法省に呼び出されたのは、参考人としてではなく、容疑者としてだったのだ。ハグリッドが継承者だから捕まったのだ等とからかい混じりに言う生徒も居たが、それが真実だった。
「僕達は、ハグリッドがスリザリンの継承者で、生徒達を襲ったなんて信じてない。絶対にハグリッドなんかじゃない。でもその事を証明するには、蜘蛛を探さないといけないんだ。ハグリッドは、蜘蛛の後を追えば糸口が見つかるって言った。それがどうしてなのかは、まだ解らないけど」
 ハリーはそこで一旦言葉を切り、ごくりと生唾を飲んだ。
「ハグリッドは、名前が……君が動物の扱いに長けてるって言った。だから頼りになるって。僕は去年森に入ったから、禁じられた森の中にはいっぱい生き物が居るって知ってる。危険な生き物もたくさん居るって事も。だから、名前なら何か良い手を貸してくれるんじゃないかって、僕も思ったんだ。ハグリッドは僕がそう思うと思って、きっとそう言ったんだと思う」
 ハリーは名前を振り返った。
「君は反対もせずについてきてくれたけど、もし……もし嫌だったら、このまま帰ってもいいよ」
 名前はちらりと禁じられた森の、入り口の方を振り返った。かろうじて、森の外の月明かりが微かに見えていた。引き返すなら今しか無い。
「……あたしだって、ハグリッドがマグル生まれの子達を襲ってたなんて信じない。蜘蛛を追い掛ければ、何か見つかるって言ったんだよね? それならあたしだって手伝うよ。あたしだって、ハグリッドの無実を証明したい」
「うん、君が居てくれると心強いよ」
 ハリーが名前を見据えてそう言ったので、名前も微笑み返した。

 立ち並ぶ巨木、生え茂る名前も知らない植物の数々、そして微かに感じる生き物の気配。既に星は見えなくなり、頼れるのはか細い杖灯りだけだった。杖がなければ、辺りは真っ暗になっていただろう。しかしながら、名前もハリーもロンも、気にする事無く蜘蛛を追い掛けて歩き続けた。
 警戒はしているつもりだったが、それにどれだけの効果があるのかは解らない。名前は魔法生物には詳しかったが、森の中にどんな魔法生物が居るのか、その全てを把握しているわけではないからだ。
 初めの内、蜘蛛は小道に沿って歩いていた。しかし、どうやら道を外れていくらしい。ハリーがロンと名前に向けて「どうする?」と尋ねたが、ロンは「ここまで来てしまったんだもの」と蒼白な顔で言い、名前も頷くと、三人で茂みの中を進んだ。

 森の中に入ってから、かれこれ一時間は歩き続けただろうか。既にハグリッドが踏み固めたと思われる道からは外れていたし、蜘蛛の群れを追い掛けながらだったので、余計に時間が掛かっているのは確かだ。また、突き出た枝やらなんやらにあちこち引っ掛かり続けたので、名前達のローブは既にぼろぼろになっていた。
 突然ファングが吼え始めたかと思うと、準備する間もなく大きな何かが眩い光と共に現れた。咄嗟の事で、名前達は身動きできなかったが、その何かはウィーズリー氏の車で、大きな犬のようにロンにすり寄った。あちこち塗装の剥げたトルコ石色のボディカラーに、折れ曲がったサイドミラー。すっかり野生化してしまったらしい。
 しかしながら、問題だったのは野生化したマグルの車などではなかった。現れたフォード・アングリアに安心したのも束の間、次の瞬間、名前達は仔牛ほどもある巨大な蜘蛛に持ち上げられていた。黒々と輝く八つの目に、しなやかに伸びる八本の足。アクロマンチュラだ。
 どこからともなく現れた大蜘蛛に、名前達は逃れる間もなく運ばれ、やがて湿った地面に投げ出された。


 窪地のような場所だった。その辺り一帯だけ木々が無く、窪地の真ん中にはドーム型の巨大な巣が作られていた。どうやらアクロマンチュラ達のコロニーになっているらしい。辺りには何百匹とも知れない蜘蛛が居て、興奮しているのだろう、絶え間なくカシャカシャと金属音が聞こえてくる。
 スコットランドに定着しているという噂があったが、まさか本当だったとは、名前は夢にも思っていなかった。
 アクロマンチュラは人語を理解し、発しもするが、だからと言って言葉が通じるかというと、まったくそんな事は無い。ヒトに対して非常に凶暴だからだ。名前達は姿くらましも出来ないし、万事休すだった。
「何の用だ?」仲間の蜘蛛にアラゴグと呼ばれた年老いた蜘蛛が、機嫌の悪そうな声で尋ねた。

 驚いた事に、アラゴグはすぐには名前達を食べようとしなかった。
 アラゴグという名の蜘蛛は、過去にハグリッドが孵した卵から産まれ、ハグリッドに対して並々ならぬ親愛を持っているのだという。アクロマンチュラがヒトに懐くなんて聞いたことがなかったので、名前は到底信じられなかったが、アラゴグはハグリッドについて話す時だけ、確かに声音が柔らかくなっていた。
 アラゴグはハグリッドの名誉の為、名前達に五十年前の事を語った。秘密の部屋の怪物が生徒を襲った騒ぎがあったのは確かだが、自分はその騒ぎの怪物ではないし、もちろんハグリッドが怪物に襲わせた訳ではないという事。ハグリッドは罪を着せられながらも、アラゴグを禁じられた森に逃がしてくれたという事。騒ぎで死んだ女の子は、トイレで発見されたらしいという事。継承者騒ぎの怪物は別にいて、自分達蜘蛛はそれを怖れて口にも出さず、ハグリッドですらそれが何かを知らないという事。

「――それじゃ、僕たちは帰ります」
 アラゴグが語り終えた時、三人と一匹を代表したハリーが言葉を捻り出した。
「帰る?」アラゴグの声は、微かに笑っているかのようだった。
 盲いた瞳からはアラゴグの感情は少しも読み取れない。
「それはなるまい……わしの命令で、娘や息子たちはハグリッドを傷付けはしない。しかし、わしらの真っ直中に進んでノコノコ迷い込んできた新鮮な肉を、おあずけにはできまい」
 アラゴグの言っている意味を理解してしまった三人は、今まで以上に身を凍らせた。辺りは既に、蜘蛛達の鋏がカシャカシャと鳴る音で覆い尽くされていた。開けた場所で、上からは月明かりが見えていた筈なのに、毛むくじゃらの蜘蛛達のおかげで辺りは真っ黒に染まっていた。
「さらば、ハグリッドの友人よ」
 アラゴグがそう言ったのを合図に、蜘蛛達が一斉に蠢き出した。名前が「ルーモス・マキシマ!」と叫んだのと、フォード・アングリアがエンジンを唸らせて窪地に飛び込んできたのは殆ど同時だった。


 間一髪、ウィーズリー家のフォード・アングリアのおかげで、名前達三人と一匹はアクロマンチュラの群れの中から逃げ出すことができた。蜘蛛達は怒り狂っていたが、森の外までは追い掛けてこなかった。急に辺りに光が走り、目が眩んだのも要因の一つではあっただろう。アラゴグは目が見えていないようだったので、目眩ましの為のルーモスも意味が無かった筈だが、高齢で素早く動けなかったのか、それとも他の理由からか、幸いにも追ってこなかった。
 ここまでくれば安心だ――名前は改めてゾッとし、震えながら車を降りた。一足先に降りたファングは、一目散に小屋まで走っている。
 生きた心地がしないというのは、こういう事を言うのだろう。まともに歩けなかったが、名前は何とか車に向き直った。
「ほんとに、ほんとにどうもありがとう……!」
 名前が泣きそうになりながらそう言って抱き着くと、トルコ石色のフォード・アングリアは、パッとヘッドライトを点滅させた。
 それから一分ほどして、ロンがやっと車から降りてくると、車はバックで森に帰っていった。恐怖が登ってきたのか、盛大に吐き始めたロンに、名前は慌てて彼の背中を摩った。

 ハリーが小屋から透明マントを取って戻ってきた頃、漸くロンも落ち着いたようだった。
「蜘蛛の跡をつけろだって」
 血の気のない顔のままのロンが、心底嫌そうな声でそう言った。
「ハグリッドを許さないぞ。僕たち、生きてるのが不思議だよ」
「きっと、アラゴグなら自分の友達を傷付けないと思ったんだよ」
「それに、蜘蛛の跡をつけたおかげで、ハグリッドが生徒を襲わせたんじゃないってはっきりしたじゃんか」
 ハリーが言い、名前もそうフォローすると、ロンは小さく頭を振った。
「そりゃそうさ。でも、僕らは喰われるところだったぜ」
「アクロマンチュラが食べる為に他の生き物を襲うのは当然だもん。それに、ハグリッドがわざと襲わせた訳じゃない、そうでしょ?」
「君、あの蜘蛛を庇うのやめろよな」
 ぎゅっと顔を顰めながら、ロンが言った。「もしわざとだったらハグリッドはほんとにアズカバンに居なきゃならないよ」
「でも、ハグリッドが『秘密の部屋』を開けた犯人じゃないって解った。ハグリッドは無実だった。それが解っただけで、僕らが死にそうになった価値はあったよ」
 ハリーの言葉に、ロンはふんと鼻を鳴らした。蜘蛛が嫌いらしいロンにとって、アクロマンチュラを物置で孵したというのは許されざる大罪なのだろう。

「さあ、帰ろう。……名前、ハッフルパフの寮まで送るよ」
 三人が三人なりにいつも通りではなく、義務的に言葉を発したハリーに、名前は頷いた。さっさと目くらまし術を掛けようとした名前だったが、いつの間にかマントを着ていたらしいハリーが、「君も来て」と言ってマントをめくってみせるので、そのまま透明マントの中に入れてもらった。
 透明マントは水が布の形を取っているかのような、滑らかな手触りだった。そして、名前達三人が入ってもまだ余るほど大きいのに、驚くほど軽い。
 ロンはまだ恐怖で震えていたが、城に着く頃には収まっていて、名前達は足音を立てないようにゆっくりと歩を進め、息を殺して巡回している教師達をやり過ごした。寮の前で名前は二人と別れ、やっと談話室に入ると、盛大に溜息をついたのだった。

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