75

 数週間ぶりの日光はすぐに遮られてしまったが、名前は日が沈むまで校庭で遊んでいた。城に戻った時は、既に夕食の時間になっていて、大広間は大勢の生徒でいっぱいだった。名前はハッフルパフ席に向かうハンナとスーザンを見付け、力一杯手を振った。彼女達は名前に気付くと、此方に向かって歩いて来た。
「あなた、今まで外に居たの?」スーザンが呆れたように言った。
「鼻が赤いわよ」とハンナ。
「へへへ」
 名前がわざと冷え切った手でハンナの顔に手をやると、彼女はひゃっと小さく叫び声をあげてから、「もう!」とぷりぷり怒り始めた。名前がけらけらと笑っていると、ふと視界に見慣れた栗毛が目に入った。「ハーマイオニー!」

 名前はハンナ達に「ちょっと待ってて」と声を掛けてから、グリフィンドールの三人組に駆け寄った。
「会えて良かった! もう具合は良いの?」
「えっと、その……」ハーマイオニーは赤くなった。「え、えぇ……」
 そう言ってはにかむハーマイオニーは、見たところ、毛も無し、耳も無し、髭も無しだ。当然尻尾も無い。目も元の褐色に戻っているし、何の障害も残っていないようなので、誰もポリジュース薬の服用に失敗したなんて思わないだろう。もちろん、継承者に襲われたなどとも思わない筈だ。
 名前がうんうんと頷いていると、ハーマイオニーは明らかにまごついた様子だった。
「君、ちょっと熱烈的すぎない? 今朝も会ったじゃないか」
「今朝?」
 ロンの言葉に、名前は首を傾げた。「薬草学の時はまだ居なかったでしょ?」
 ロンは何を言っているんだという顔で名前を見た。彼の隣に居るハリーも、不思議そうな顔をしている。ハーマイオニーでさえ、困ったように名前を見ている。何か変だ。
 彼女は何かに気付いた様子だったが、名前がハッフルパフ生に呼び掛けられた事で、結局何も言わず、名前達はそこで別れた。ハッフルパフ生の大半はハリーがスリザリンの継承者だと思っているし、名前だって彼女達に嫌な思いをさせたいわけではない。

 ハンナ達の元へ戻ると、名前が何か言うより先に、スーザンが「あなたがポッターを疑ってないのは解ってるつもりだけど、何もこんなところで話さなくても良いでしょうに」と呆れたように言った。
「こんな所って?」
「他の人が大勢居るでしょう。あなたまで疑われるわよ」
「だってハーマイオニー、ずっと入院してたんだよ? 心配するじゃんか」
「朝だって会ったじゃない」
「朝……? それ、さっきロンも言ってたけど、今日の朝はまだ退院してなかったでしょ? それにスーザン、ハリーは継承者じゃないから何も心配いらないよ。ダンブルドアだってそう言ってたし」
「校長先生がそんな事を仰ったの?」
 名前はクリスマス休暇の前、校長室に入った時の事を話そうとしたが、それより先にハンナが「名前」と呼び掛けた。
「ハーマイオニーとは今朝会ったわ。あなたが彼女と話しているの、わたし見たもの」
 名前はぽかんとして、ハンナを見返した。心配そうに、そして訝しげな顔で名前を見ているハンナの顔を。


 何もおかしくない、どこも変じゃないし、せめてスープの一杯でも飲んでからにしたい――名前はそう主張したが、ハンナもスーザンも少しも聞き入れてくれなかった。名前は彼女達に半ば引きずられるようにして、五分後には医務室に押し込められていた。
 マダム・ポンフリーは名前の頭や顔、目なんかをあちこち触り、ぶつぶつと何かを呟いたかと思えば、杖を振ってまた何かを言ったりしていた。が、やがて自分の手に負えないと判断したのか、別の魔法使いを呼び寄せた。
 医務室にスネイプが現れた時には、何か魔法薬を飲まされるんだろうかと嫌な予感がしたが、その後寮監のスプラウトが現れ、そしてダンブルドアまで現れた時には、自分が何かとんでもない事態に巻き込まれているのではないかと、認めないわけにはいかなかった。
「本当なのですか?」スプラウト先生が心配そうに言った。「記憶が消えているなんて……?」

 記憶がどうとか、呪文がどうとか。名前には先生達が何を言っているのか、いまいち頭に入ってこなかった。名前は普段通りだし、むしろ、様子がおかしいのはどちらかというとハンナ達の方の筈だ。しかしながら、名前は成り行きをじっと待っていることしかできなかった。
 教師達に囲まれたまま、名前は目の前に座るスネイプの顔を見た。気付けば彼と向い合せに座らせられていた。何が始まるのか気が気ではない。スネイプはまったくの無表情で、尋問でも始まるのではないかという威圧感だ。もっとも、ダンブルドアが居るからなのか、普段より多少言葉尻が柔らかい気がしなくもない。
「答えたまえ。今日は何年の何月、何日かね?」
「一九九三年、二月一日……」
 スネイプが目を細めたので、名前は慌てて「です」と付け足した。
「……すると、今日は月曜だというわけだな?」
「はい」
「直近の魔法薬学で習った魔法薬は?」
 名前は思い出しながら答えた。「老け薬です」

 今週はまだ魔法薬学を受けていないので、一月に習った老け薬が直近で習った魔法薬だ。数回に分けて復習し、その間には髪を逆立てる薬や、縮み薬にも触れていたが、調合自体を教えてもらったわけではないので当て嵌まらないだろう。
 周りが絶句している中、スネイプが「なるほど」と小さく呟いたのが聞こえた。
「今日一日何があったか、遡って話したまえ」
「はあ……」
 名前は視線を彷徨わせたが、スネイプに「我が輩の目を見て言いたまえ」ときつく言われ、仕方なくスネイプを見た。正直かなり嫌だ。
 艶の無い黒髪はいつから洗っていないんだろうとか、スネイプも癒師の資格を持っているんだろうかとか、そもそもいったい何をさせられているんだろうとか、名前はそんな事を思っていたが、スネイプの真っ黒い目を見詰め返す内、段々と記憶が蘇ってきていた。ドラマの回想シーンのように、今日の事が次から次へと時間を遡り、そして浮かんでは消えていく。
 ハーマイオニーがやっと退院してきて嬉しかった事。黒い湖の氷は大きな石を投げても割れなかったし、掘削呪文も上手く使えなかった事。防寒着を取りに一度寮に戻った事。変身術でマクゴナガル先生に褒められ、五点を貰った事。昼食で食べたベーコンが美味しかったので、明日も食べようと思った事。薬草学は前回と同じく同級生が二人欠けたままで、温室が広く感じた事――。

 ふっと我に返った名前は、スネイプがいつの間にか杖を持っていた事に気が付いた。今、何らかの魔法を使われていたのだろうか? 確かにかなり奇妙な思い出し方だったので、おそらくはそうなのだろうが、何をされたのか少しも解らなかった。しかしながら、スネイプが「やはり消えているようですな」と言った事から、どうやら頭の中を覗かれていたらしいという事を理解する。
 名前としては何の違和感もなかったのだが、マダム・ポンフリー、そして何故かスネイプの見立てによると、どうやら一日分の記憶が消えているらしかった。今日は月曜日の筈だったが、名前以外の全員が火曜日だと認識しているらしい。すると、おかしいのは名前という事になる。
「しかし……どうしてミス・名字の記憶が無くなってしまったのでしょう。これもスリザリンの継承者の仕業なのですか? 名字は継承者にとって何か不都合な物を見てしまって、口封じの為に……?」
 恐々とそう口にしたのはスプラウト先生だったが、誰も返事をしなかった。マダム・ポンフリーは青白い顔のまま口を閉ざしていたし、ダンブルドアは医務室に来てから一度も口を利いていなかった。ややあって、「これまでの例で言えば、名字だけが記憶を消されただけで済むというのは聊か妙でしょうな」とスネイプが静かに言った。

 マダム・ポンフリーの腕をもってすれば、記憶が消えたところですぐに元通りにできるのだろうと名前は思っていたのだが、どうやらそういうわけにはいかないようだった。何でも、人の記憶というのは最も繊細な分野で、罷り間違うと大事故に繋がってしまうらしい。
 スネイプが呼ばれたのは、その分野に多少詳しいからだったらしいのだが、そのスネイプでさえ、消えた記憶を元に戻すのは非常に困難な事なのだそうだ。通常、忘却という現象は、その物事について忘れたと思っているだけで、記憶自体は頭の中に持っているらしい。記憶を覆ってしまう術はあるそうなのだが、今回の場合はその覆いの判別自体が不可能で、記憶を呼び起こそうにも手の出しようがないのだという。また、記憶を抜き取られた痕跡もないので、覆いで隠された記憶を地道に探すしかないのだそうだ。
 何かを忘れているのではなく、何かを忘れていることすら忘れている、それが今の名前の状態らしい。

 名前の記憶を取り戻すには、聖マンゴで精密な検査、入院が必要で、しかもそこまでして思い出せる確証はないというのがマダム・ポンフリーの見解だった。
 スネイプは聖マンゴで検査を受けるべきだと主張したが、マダム・ポンフリーは反対した。スネイプは、名前の消された記憶にはスリザリンの継承者に繋がる手掛かりがあるかもしれず、それをみすみす見逃す手はないと言い張った。マダム・ポンフリーは、記憶という不可侵領域を荒らすのは、重篤な後遺症を患う可能性があるので承服しかねると主張した。また、名前が幼いので、治療に耐えられない可能性すらあるというのが彼女の言い分だ。
 スプラウト先生は初めの内、マダム・ポンフリーに同意していたが、名前が治療を受けたくないと言うと、逆にスネイプの側に立った。名前に反対したのではなく、今ここで名前に適切な処置を施す方が、後々――色々な面で――問題になる可能性が低いと思ったようだった。
 それまで黙りこくっていたダンブルドアが、ここにきて初めて口を開いた。「治療は必要ないじゃろう」
「ミス・名字を見るに、普段と変わりないようじゃ。記憶の接合も上手く行われているようだし、後遺症に繋がる事もないじゃろう。これで同票じゃ。ミス・名字が聖マンゴでの治療を受けたくないのならば、その意思を尊重する事としよう」
 スプラウト先生、そしてスネイプは納得がいっていないようだったが、二人共反論はしなかった。
 名前としては一日損した気分だったのだが、正直特に不都合はなかった。月曜日だと思っていたのに明日が水曜だといきなり言われ、その事について違和感がある程度だ。むしろ、火曜日は嫌いな授業ばかりだったので、スキップできてラッキーですらある。しかしながら、名前のそれは机上の空論で終わった。
「セブルス、ハッフルパフの二年生は今日が魔法薬学じゃったな。ミス・名字は不慮の事故で記憶を失ったからして、補講の授業を行わなければなるまい。カスバートとギルデロイにもそう伝えておいておくれ」
「わかりました」
 スネイプは全くもって「わかりました」の顔をしていなかったが、名前も同じような表情をしていた事だろう。もう帰って良いと言われ、名前は空腹を抱えながら寮に戻ったのだった。

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