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 それからの数週間、名前は不安に苛まれながら過ごす事になった。ハグリッドがノルウェー・リッジバックを孵したのかどうか、あれ以来彼に会いに行っていないので解らない。食事には顔を出しているようだが、普段とそう変わらないように見えるし、浮足立っているようにも見える。そもそもハグリッドを見る機会はあまり無いので、名前には到底判断が付かないのだ。
 ただ、畑が雑草だらけになっている気がするし、飼われている家畜がほったらかしになっている気もする。また春になったというのに、小屋の煙突から煙が上がり続けている事にも気付いてはいたが、名前は見ないふりをしていた。

 この日、久々に青空が広がっていたこともあり、名前はハグリッドの小屋の近くまで様子を見に行った。最後に見た時と同じようにカーテンはしっかりと閉ざされているし、やはり暖炉の火は絶やしていない事が解った。――ドラゴンは雌が抱卵するが、その際に火を噴き掛けることによって仔の成長を促すのだ。
 今からでも、ダンブルドアに言うべきなのだろうか。卵が取り上げられればハグリッドはきっとがっかりするだろうし、信頼して打ち明けてくれたのだろう名前が告げ口をしたと知れば、名前の事を嫌いになるだろう。多分、それが正しいことなのだが、名前にはどうしても勇気が出なかった。
 ハグリッドに会い、ドラゴンがどうなったか確認しようと思っていたが、名前は結局踵を返した。その時ふと、視界の端に暗い緑が映る。禁じられた森だ。
 ハグリッドがドラゴンの卵――もしくは、もう産まれてしまっているかもしれない――に夢中になっている今、名前が禁じられた森に入れるのは今しかないのではないか? 散々ハグリッドに法律違反だなんだと言っておきながら、自分はまた校則を破ろうとしている。ハグリッドが卵の孵化を考え直してくれなかったのも、それが原因なのではないか。しかし――。
 その時緩やかな風が吹き、名前の背をそっと押した。
 名前の足は自然と前に進み、吸い込まれるように禁じられた森の中に踏み込んだ。


 ひとたび禁じられた森に入れば、不思議と辺りが静まり返ったように感じられた。音が消えてしまったようだ。前に森に入った時はフレッドとジョージが一緒だったので、名前は殆どピクニック気分だったが、今はたった一人だ。薄暗く湿っていて、一歩進む毎に森の匂いが鼻を衝く。名前は整備された小道から外れないように気を付けつつ、慎重に歩を進めた。
 か細い杖灯りを頼りに、どれほど歩いただろうか。
 物音がした時には遅かった。木立の中から突然何か大きなものが面前に立ち塞がった時、名前に出来たのは、杖を持ったままその場に立ち竦むことだけだった。「……フィレンツェ?」

 現れたのは、以前にも一度会った事がある若いケンタウルスだった。パロミノの身体からは汗が立ち昇っている。しかし彼自身は涼しい顔で、黙って名前を見下ろしているのがやけに不気味だ。
「ええと……ごめん、この辺って貴方達の場所だった?」
「ヒトが禁じられた森と呼ぶこの森は、誰のものでもありません」
 名前はフィレンツェが返事をしてくれた事に、内心でかなりホッとした。どうやら何らかの逆鱗に触れてしまったというわけではないようだ。フィレンツェは温厚な性格をしているように見えるが、ケンタウルスは基本的に人間を嫌っているし、彼らが魔法使いと揉めた末に流血沙汰になった事例は少なくない。
 ――縄張りに入った人間を牽制に来たのでないならば、彼は何故名前の前に姿を現したのだろう。
 名前はほんの少しの違和感を抱いたが、考えても解らなかった。フィレンツェは「生徒の立ち入りは禁止されている筈ですが」と静かに言った。
「――それは知ってるけど、こんなチャンス滅多にないし……」
「この森は今、安全ではありません」フィレンツェはぴしゃりと言った。
 名前は改めてフィレンツェを見上げた。まさか、彼はハグリッドや、もしくは校長のダンブルドアに頼まれて、禁じられた森に侵入する生徒を見張っているんだろうか。仮にそうなら、前回森に入った時にも姿を見せたのも頷ける。しかしケンタウルスが人間の頼みを聞いてくれるなどという事は、万が一にも有り得ない――筈だ。

 そんな事があるわけないとは思いつつ、仮にダンブルドアに頼まれて生徒を見張っているのであれば、彼を言葉で説得するのは至難の業だろう。名前は十一歳の子供だったし、人間の理屈が通じない相手を言い負かせるほど口達者ではない。
 どう対応すべきか考えあぐねていると、フィレンツェが再び口を開いた。「この森は今、安全ではないのです」
 同じ事を繰り返したフィレンツェに、名前は口を開こうとしたが、それより先に彼は言葉を続けた。
「最も純真で、最も穢れない命が奪われる事になる」
「……えっ?」


 名前はフィレンツェが言った言葉の意味を考えた。最も純真で、最も穢れない命。「それって、ユニコーンの事?」
 名前の脳裏には前に見掛けたと思った銀色が浮かんでいた。この森にユニコーンが本当に居るかどうか、確信は持てなかったが、最も純真な――しかも、ケンタウルスが認めるほどの――生き物と言えば、それはユニコーンだろう。眩かんばかりの銀色の体躯、輝く鬣、そして額から生える一本の長い角。
 フィレンツェは返事をしなかったが、名前はそれをイエスの返事だと解釈した。
「……待って、奪われる? それって、いったいどういう……」
「名前・名字、貴方にはその意味が解るでしょう。生き物を慈しむ貴方なら」
 名前はフィレンツェの青い瞳を見詰め返した。「……闇の魔法使いが居るの? 今、このホグワーツに?」
 フィレンツェは、返事を寄越さなかった。

 若いケンタウルスは再度名前に森は安全ではないと言い、それから城に戻るように促した。
「貴方が私に命令をしなかったように、私も貴方に命令はしません」
 フィレンツェはそう言って、名前の反応をじっと待った。名前が「じゃあ、帰るね」と口にするまで。
 名前は来たばかりの道を引き返し、歩き始めたが、フィレンツェは黙ってその後を着いてきた。木々の奥から光が差し込み始めた頃、蹄の音は止まった。
「えーっと、着いてきてくれてありがとう?」
「我々には解っていました。火星の光は絶えず、そしてますます明るさを増してゆく」
「ねえ、それってどういう意味?」名前が言った。「あたし、天文学って苦手なの」
 フィレンツェは初めて笑みのようなものを見せた。「さあ、城へ戻って。振り返らずに。これは友としての願いです」
 カボチャ畑を横切り、樫の大扉が見えるようになった頃、漸く名前は落ち着く事が出来た。ケンタウルスがわざわざ警告を発する為、全力疾走してまでヒトを探した事など、ごくごく些細なことだ。
 ――一角獣は強い魔力を持った魔法生物だ。その魔力は例え鬣一本でも、驚くほどの効果を発揮する。鬣は杖の芯にも使われる事もあるし、角や骨も貴重な材料として重宝される。また、その血を飲めば長く生き永らえることが出来る。例え死の淵に居たとしても。
 名前はぶるっと体を震わせ、心なしか速足で大扉をくぐった。ハグリッドが孵したかもしれない法律違反のドラゴンの事など、すっかり頭から抜け落ちていた。

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