19

 トロールが地下室に現れた次の日、ごく一部を除いて、生徒達は普段通りの生活に戻っていた。トロールのような危険な魔法生物は禁じられた森に居てもおかしくないし、そんな生物が城に迷い込んでくるのは有り得ない話ではないというのが大多数の認識らしい。いずれにせよ、(一部の壁やドアの損傷はあったらしいが)被害は無かったので、生徒達にとってはさほど興味をそそられる話題ではないのだ。名前だって、トロールを見られなくて残念だったな、くらいのものだった。
 しかしながら、ハンナはそのごく一部の生徒の一人だった。昨晩のトロール侵入の報を受けて、彼女はすっかり怯え切ってしまったらしい。
 またトロールが入り込んだらどうしよう、と、怯えるハンナを、名前は根気強く元気付けたつもりだった。トロールはもう退治された、上級生達はこんな事は初めてだと言っていたからまた起きる可能性は低い、仮にまた入ってきたとしても昨日だって誰も傷一つ付いていないのだから次もきっと大丈夫だ、等々。しかし午後になっても彼女の調子は戻らず、名前も段々と気が滅入ってきた。
「大丈夫だよハンナ」大広間へ向かいながら名前は言った。「もうトロールは絶対・・入ってこないよ」
「絶対なんて、どうして言えるの?」
「だって、トロールにはそんな知能元々ないんだよ。好き勝手に暴れることしかできないんだから」
 ハンナは目を見開いた。「じゃあ、昨日のトロールはどうやって・・・・・地下に入ったの?」

 小さく震え出したハンナに、名前は自分の失言を悟った。
 トロールは人間を襲う事はあれど、その居住地を狙う事はまずない。それを思考し、そして実行するだけの脳が無いからだ。多少教育を行えば、人間の指示もある程度は聞くようになるそうだが、それでもかなりの時間と労力を伴う。それならどうしてホグワーツの地下に入り込んだのか。――当然、誰かがわざとトロールを侵入させたからだ。
 トロールが入り込むよりも、トロールをわざと入り込ませた人間が居る方が、ずっと恐ろしい事だ。
 途端にパニックになって泣き出してしまったハンナに、名前は「落ち着いて」と声を掛けたが、殆ど無駄だった。
「だ、だって」ハンナの両目からぼろぼろと涙が零れている。「そ、それをやった誰かが居るって事でしょう……!?」
 大広間に向かう途中だったので、通り過ぎていく生徒達の視線が痛い。声を上げて泣き出してしまったハンナに、名前は途方に暮れてしまった。後からやってきたアーニーが、「君、一体何をやったんだ!?」と名前を糾弾するように声を掛けて来たのもかなり最悪だ。

 泣いているハンナをアーニーが懸命に慰めているのを、名前はただ眺めることしかできなかった。遅れて来たスーザンとジャスティンは、名前が説明した経緯を聞いて、かなり困ったような顔をした。もっとも、名前自身、彼らと同じ気持ちだった。例え事実だったとしても、もう少しくらい伝え方は選べた筈だ。ハンナがプレッシャーに弱いことや、かなり怖がりらしいということは、解ってきていた筈なのに。
 すっかり怖がってしまったハンナは、それからもめそめそと泣き続けていたが、たまたま通り掛かったケトルバーンが、もうトロールが入り込むことは無い筈だと請け合ってくれたおかげで多少安心したらしかった。
トロールが偶然入り込んでしまった穴は塞いだし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・トロール除けの呪文を掛けたから心配いらないよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そう言ってから、ケトルバーンは昼食を食いっぱぐれない内に食べると良いと名前達の誰に言うでもなく口にすると、義足を鳴らしながら大広間に入っていってしまった。どうやら泣いていた一年生が泣き止もうと、もしくはそのまま泣き続けようと、どうだって良いらしい。
 しかし、様相はおっかなくとも、魔法生物飼育学担当の教授が言ったからだろう、ハンナも徐々に落ち着きを取り戻したようだった。名前がごめんと口にすると、彼女は小さく首を振った。


 ――名前は、アーニー・マクミランの態度を全て許そうと思っていた。彼が名前を蛇蝎のように嫌うのも、少なくとも納得はできたからだ。彼のような真面目な生徒には名前のような不真面目な態度は許せないものだろうし、先日ハンナを泣かせてしまったのも、全て名前が悪い。アーニーが睨んできても、他の寮生達の前であからさまに叱ってきても、気にしないでいようと思っていた。

 土砂降りの雨が降ったこの日、名前はいつものようにクラッブに付き纏い、スリザリン寮に入れて欲しいと頼み込んでいた。授業が終わった後にふらふらしていた名前は、同じく授業終わりのスリザリン生達を見付けたのだ。
 湖に足を運んでも何の成果も得られない今、水生生物観察に手っ取り早いのは、スリザリン寮に入り込み、湖の中を安全な位置から観察することだった。毎日凍えそうになりながら湖に向かう名前だって、出来る事なら水魔や大イカを暖かな談話室で眺めたいと思っているのだ。
「良いじゃん、ちょっとだけだよ。別に悪戯しようってわけじゃないんだから」
 名前がそう言うと、クラッブはうるさそうに眉を顰めた。顔を合わせる度に名前が寮に入れてくれと喚き散らすので、いい加減鬱陶しくなってきたらしい。初めの内はマルフォイや、ゴイルにも頼んでいたのだが、どうやら彼らも名前の相手をするのは無駄だと思ったのか、近頃では名前が何を言う前にクラッブに押し付けて去っていくようになっていた。名前としては、彼らと何を話せば良いのかいまいち解らないので有難くもあるのだが、同時にクラッブがマルフォイの意(この場合、名前をスリザリン寮に入れないことだ)に背こうとしない事が解った為、結局平行線を辿ることになる。
 クラッブだけであれば言い包められる、もとい言い包められてくれるかもしれないのだが、彼はよほどマルフォイを気に入っているらしい。親友は私なのにと思う反面、同寮、同性の友人同士の方が、色々と都合が良い場合もあるのだろう。
「寮になんか、入れてやるわけないだろ。第一、お前は合言葉を知らないんだ」
「合言葉?」どうやら、寮への入り方はそれぞれ違うらしい。スリザリン寮の近くへ行って、辺りの壁やら何やらを叩きまくってみようかなと思っていたが、まだ実行していなくて良かった。「ビンセントは合言葉を知ってるの?」
「当たり前だろ。合言葉は、バーミン害虫
バーミン害虫?」
 名前は少し考えた。「それ、マーリンじゃない?」
 クラッブは目をぱちくりさせると、そのまま考え始めてしまった。他寮生の名前に大事な筈の合言葉をうっかり言ってしまったのも、その寮に入る為の合言葉をうろ覚えなのも、クラッブらしいと言えばらしいが、少々心配になってしまう。後者に関しては、他の寮生が近くに居れば一緒に入ったり、入り口を開けて貰ったりできるかもしれないのであまり問題無いのかもしれないが。
「……ふーん! じゃ、地下へ行こーっと。スリザリン寮って魔法薬学の教室の近くなんでしょ、あたし知ってるんだから」
「馬鹿、よせ」
「よさないもん」
 クラッブが殴る真似をして、名前はそれをひょいっと避けながらくすくすと笑う。スリザリン寮への入り方は解ってしまったが、流石に他寮へ忍び込む気は無かった。クラッブの方もそれを解っているのだろう、名前を捕まえると「こいつ」と言って頭を拳骨でぐりぐりしながらも、まったく痛くない。
 名前がけらけらと笑っていると、「クラッブ!」と後方から声が掛かった。

 クラッブが名前を降ろしながら振り返るのと、「君もホグワーツ生なら弱い者いじめなんかよすんだ! 恥ずかしくないのかい? それとも自分より小さいのを虐めていないと気が済まないのかい? いいかい、君が動かないなら先生に――」とアーニーが言うのとは殆ど同時だった。アーニーはクラッブが虐めていると思った相手が名前だったのを――助けたと思った相手がかんかんになって怒っているのを見て、口を噤んだ。
「何なの?」名前が言った。「何なの?
「前から思ってたのよ、いったい何様のつもりなの? 自分がいつでも正しいなんて思ってるわけ? それに、私の友達の事を何だと言ったの? いい加減にして、貴方が良い子ぶりたいと思うのは勝手だけど、貴方の自己満足にあたし達を巻き込まないで!」
 アーニーの顔が真っ赤になった。羞恥ではなく、怒りからだ。しかし、反論が思い浮かばないらしい。名前はふんと鼻から息を出し、クラッブに「行こ!」と言って踵を返した。しかし彼はどうやら呆気に取られているようで、ぽかんとしたままだ。名前は仕方なくクラッブの手を掴んで引っ張り、その場から離れた。

 アーニーは、クラッブが名前を抱えているのを見て、苛めていると決め付けていた。普段の名前であれば、傍目からならそう見えても仕方ないと思っただろうが、今は腹が立ち過ぎて、ただただ苛立ちだけが募っていく。
 二人で飛び乗った階段が動き出した時、漸くクラッブが口を開いた。「お前、怒るんだな」
「何!?」
「おお怖」クラッブは静かに笑っている。「さっきのデブの顔見たか?」
 名前は隣に立つクラッブを見上げた。自身が一方的に詰られていたにも関わらず、名前が怒っている事の方がおかしいらしい。もっとも、自分が言われていた事に、気が付いていないだけかもしれないが……。
 ――かんかんに怒っていた筈なのに、名前はいつしか笑っていた。
「そうだね、釜茹でになった庭小人みたいだったよね」
「何だって……?」
「なんでもなーい」
 この日以降名前はアーニーと口を利くのをやめたし、お互いがお互いに無視するようになった。ハンナや他の友人達は名前達の剣呑な雰囲気に戸惑ってはいたようだったが、誰も何も言わなかった。

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