7
呪文学の教室は、ホグワーツの東の塔の四階に位置していた。お腹を空かせた同級生達が、フリットウィックの妙技に感じ入ってぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら歩いていた時、名前は一人窓の外に目をやっていた。そして城の向こう側、校庭の端に広がる木々に目を奪われていた。禁じられた森だ。窓から微かに見えた木々は、名前を虜にした。
魔法学校は普通、マグルの居住区とは離れた場所に建てられる。魔法族迫害の歴史がそれを形作っていて、このホグワーツも例外ではない。ホグズフィールドは元々人里離れた荒廃した土地であり、そこへ逃げて来た魔法族達が子供達の学び舎としてホグワーツが建てられた。今でも近隣にマグルは居らず、例え城近くに辿り着いたとしても、重厚なマグル避けの魔法が彼らに急用を思い出させるのだ。
マグルが居ない地域には、当然魔法生物が数多く根付く。禁じられた森にも、当然沢山の魔法生物が棲んでいる筈だ。
禁じられた森へ入ってはいけない。ダンブルドアはそう言ったが、何故入ってはいけないのかは説明しなかった。グラップホーンは兎も角、オーグリーとか、天馬のイーソナン種とかは棲息しているかもしれない。七歳の時から『幻の動物とその生息地』を愛読書にしていた名前は、当然のように魔法生物が大好きだった。以前暮らしていた家の近くにも森はあったが、魔法生物は殆ど居なかった。
野生の魔法生物をこの目で見られる機会が、すぐそこに転がっているのだ。それを逃す気はないし、出会いは早ければ早いほど良い。
夏草の生えた丘陵地を転がるように駆け下り、途中広々とした湖に気を取られつつも、名前は城から離れ、巨大な木々の立ち並ぶ森がすぐ傍に見えるところに来た。森の端には木で出来た小屋があり、畑の様からして人が住んでいることは明らかだったので、名前は速足で近くを通り過ぎた。森に辿り着いた時には肩で息をしていた。
近くまで来てみると、森にはかなりの巨木が生えているらしい事が解った。ホグワーツが出来たのが約千年前で、この森はその当時から存在しているという話だから、きっと年数を重ねた木も多いのだろう。どうやら人が全く入らないというわけではないようで、入り口らしい場所があるようだった。おそらく生徒は立ち入りが禁止されているだけで、教員やその他の人間が森に入ることはあるのだろう。森の中を管理したり、魔法薬の材料を採ったりするのかもしれない。しかし道の先、藪の奥は少しも見渡せず、黒々とした森が広がっているだけだった。
時折聞こえてくる聞き慣れない鳥の声や、街中とは違う木と分解されていく土の匂いに、名前はドキドキした。雷のような大声が響いたのは、名前が記念すべき第一歩を踏み出した時だった。「おまえさん、一体何しちょる!」
轟き渡る大声に、名前は文字通り飛び上がった。本当に二、三十センチは飛び跳ねた。それから振り向こうとしたが、そうするよりも先に勢いよく宙へと持ち上げられた。上げようとした悲鳴の代わりに、「ぐえっ」と潰れた蛙のような音が出る。すると黒い髭面の大男が首根っこを掴んで持ち上げており、喉が潰れていなければ本当に悲鳴を上げていただろう。
男はカンカンに怒っていた。訛りのきつい英語で「森へは立ち入り禁止だ!」と怒鳴る。
名前は男の人相と、それから常人より遥かに巨大な彼の身体に竦み上がっていたが、よくよく見ると、昨晩名前達をホグワーツまで案内してくれた魔法使いだと気が付いた。森に棲んでいる野生人ではなく、正式なホグワーツの職員だ。名前はほんの少しだけ安心した。そして男の方も、名前が常日頃から禁じられた森への侵入を試みている悪戯坊主達ではなく、入学したばかりの女の子だと気が付いたようだった。
「見慣れん顔だ。お前さん、一年生か?」
「そう! あたし、名前・名字!」名前は名乗った。「できれば降ろしてくれると嬉しいんだけどな!」
大男は少々考えている様子だった。表情は険しいが、名前は彼の言葉尻から、彼が見た目ほど荒くれ者ではない事を的確に感じ取っていた。勢いよく持ち上げられたのも、彼の視界には名前の背は低すぎるからだろう。名前は特別大きくも特別小さくもなかったが、彼の背丈は名前の二倍以上ある。
名前は期待を込めて男を見詰めていたが、彼が「それはできねえ」と言ったことで表情を強張らせた。
「森には入っちゃなんねえと、昨日ダンブルドアも言うとっただろうが」
「まだ入ってないよ!」
「まだだと?」
名前は自分の口を呪った。
まだなんて言っていない、森を近くで見てみたかっただけで入るつもりなんて全然なかった、きっと聞き間違いに違いない等々。名前は言い訳を並べたが、大男は怪訝な顔をしただけだった。もじゃもじゃの髭と髪の奥から覗く黒い目が、微かに細められている。「ファング、ちいと待っとれ」
男の言葉に、名前はすぐ傍に大きなボアハウンド犬が居たことに漸く気が付いた。名前の足元、大男の影になっているところに、大きな黒い犬が居る。名前はファングと呼ばれたその犬を何とかしてよく見ようとしたが、男がのしのしと歩き出したのでそれは叶わなかった。
「えっ、待って、下ろしてよ。どこへ行くの?」
「俺の手には負えん。お前さんハッフルパフだろう、スプラウト先生にお伺いを立てにゃ」
「えーっ!」
驚いた事に、大男はこのまま――名前の首根っこを掴んだまま――ホグワーツ城へ行くつもりなのだ。しかも、スプラウト先生に言い付けにいく為に。
名前は暴れたが、大男は少しも意に介さず、大股で坂道を歩いた。あれだけ苦労して走り降りた野道が、いとも簡単に過ぎ去っていく。結局、名前は逃げるのを諦めてしまった。男の手が少しも緩まなかったのもあるし、他の生徒も増えてきて、じろじろ見られたくなかったからでもある。じたばた藻掻いているよりは、微動だにせず神妙な面持ちで居た方が目立たないだろう。もっとも名前の浅知恵では、好奇心旺盛な生徒達の目を塞ぐことはできなかったが。
瞬く間にホグワーツ城の中に入り、そして男は名前がまだ通ったことのない廊下を進み、それから階段を上って一つの部屋の前に辿り着いた。男がノックし、「失礼します」と部屋に顔を覗かせる。ドアが勢いよく開きすぎたからか、それとも男の声が大きかったからか、部屋中の目が不思議そうに男と――そして名前を見る。部屋に居たのは全員大人の魔法使いや魔女で、名前はこの部屋が何だか漸く解った。職員室だ。
名前は「私は何もしていませんよ」という顔を慌てて取り繕ったが、既に手遅れだった気がしてならない。
「やあ、やあ、ハグリッド。珍しいじゃないか。どうしたね」
大男が――ハグリッドがきょろきょろしていたからだろう、近くに居た魔法使いが下から声を掛けてくれた。彼の名前は解る、フリットウィックだ。
フリットウィック先生は森番の男、もといハグリッドの手に摘ままれたままの名前と目が合うと、小さく「キャッ」と言った。驚かせてしまったらしい。
「スプラウト先生にお目に掛かりたいんですが」
「ポモーナなら、彼女の執務室に居ると思うよ」
先生はそう答えながらも、かなり困惑した様子で名前とハグリッドを見比べている。ハグリッドはフリットウィックに礼を言ってから職員室を後にし、再び歩き出した。しかし、今度は本当に少し歩くだけだった。ハグリッドがノックをすると、今日会ったばかりの魔女が顔を覗かせた。
「あら、ハグリッド、今日はいったい……――」
スプラウト先生が言葉を途切らせたのは、名前と目が合ったからだろう。
「先生、この子が禁じられた森に入ろうとしとったんで」
「……え? 何です、森?」
「禁じられた森に。そうです」
先生は今度こそ目を丸くさせた。ハグリッドの言葉を反芻しているのか、先生が「二人共、中へ入って」と言ったのはたっぷり間が空いてからだった。
先生の私室というものに、名前は当然ながら初めて入った。スプラウト先生の部屋は授業で使った温室ほどではないものの、どういうわけか土と肥料の匂いがした。本棚がいくつかあり、色合いも暖色でまとめられていて全体的に落ち着いた雰囲気だったが、不思議と生活感は無かった。その代わりに鉢植えがあちこちに並んでいて、部屋を明るく見せている。置かれていたスイセンがラッパのような音を出したが、先生はぴしゃりと叩いてやめさせた。ハグリッドは漸く名前を降ろしてくれた。
スプラウト先生は名前達に椅子に掛けるように言ったが、名前はじっと立っているだけだった(ハグリッドも遠慮した。彼が座れる椅子が部屋に無かったからだ)。自分が実はとんでもない事をやらかしてしまったのではないか、と、名前は漸く気が付いた。
ハグリッドは仕事の一環で森へ近付く生徒を監視している事、今日も当然見張っており、部屋の中から伺っていた事、城から駆けて来た名前が殆ど一直線に森へ向かった事、森へ入る直前で捕まえた事を話した。名前は彼がどこから現れたのだろうと不思議だったのだが、どうやら元々あの木の小屋の中に居たらしい。煙突から煙が出ていなかったので油断していた。
話を聞いていたスプラウトは、ハグリッドが語るに連れてかなり渋い表情になっていた。
彼が話し終えると初めて名前に目を向け、「ハグリッドが言っていることは本当なのですか?」と尋ねた。口調は優しかったが、事実を確認しているのではなく、殆ど断定しているような言い方だ。
「あの、あの……」名前はほんの一瞬だけ、誤魔化そうかと思った。スプラウト先生は優しそうだし、名前が森へ入ろうとしたのを見たのはハグリッドだけだ。近くで見ていただけだと強く言い張れば、何とかなるかもしれない。しかし名前はそうしなかった。「あの……はい……」
スプラウト先生は露骨に怒ったり、叱り付けたりはしなかった。しかし、彼女の表情には戸惑いの他に明らかな失望が浮かんでいる。怒られたらどうしよう、という名前の勝手な不安は萎み、いつしか情けなさと申し訳なさでいっぱいになっていた。
先生はハグリッドに礼を言い、後は自分が引き受けると告げた。校則を破った時は寮監が対処を判断するのだろうと名前は思った。ハグリッドが部屋を後にすると、スプラウト先生はほんの小さな溜息を一つこぼし、名前に向き直った。お掛けなさいと再び言われ、名前はおずおずと椅子に腰掛ける。
「校内の森への立ち入りは禁止されています。それは解りますか?」スプラウトが言った。
「昨日、校長先生が説明していましたね。生徒の立ち入りは禁止されていると。昨日は色々な事があったでしょうし、緊張も沢山したでしょう。貴方は校長先生のお話をちゃんと聞いていなかったかもしれませんね」
「はい……」
名前は「聞いていました」とか、「知っていました」とかごにょごにょ言ったが、スプラウト先生は責めなかった。
「ミス・名字――」スプラウト先生は名前の名を呼んだ。「――生徒の立ち入りが禁止されているのは、あの森に危険な動物や植物が多く存在しているからです。貴方が新入生だという事に限らず、生徒の手では決して対応できません。成人した魔法使いでさえ、あの森に入る際は細心の注意を払うのです。貴方はとても軽い気持ちで、自分の度胸を試そうとしたのかもしれませんが、それはあってはならない事です。ホグワーツで禁止されている事には、それぞれ必ず理由があります。いいですね」
はい、と名前は返事をした。ひどく小さな声になってしまったが、スプラウトは頷いてくれた。
「ハグリッドが貴方を見付けたのはとても運が良かった。でなければ、貴方は今頃どんな目に遭っていたか解りません。ハッフルパフから二百点減点します。それから、処罰も与えます。内容については後日お伝えしますから、きちんと反省するように」
スプラウト先生はそれからもう寮に戻っても良いと言い、名前は執務室を後にした。どこをどう歩いたかも解らないが、名前はハッフルパフ寮に辿り着いた。談話室の中は生徒で賑わっていて、誰も名前が禁じられた森へ入ろうとして見付かり、今まで叱られていた事を知らないと思うと、かなり奇妙な心地だ。
名前に気付いたハンナは名前の顔を見て元気が無いようだと言ったが、名前は何でもないと答える事しかできなかった。しかし、自分が上手く笑えたのかどうか、さっぱり解らなかった。
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