蜥蜴の尻尾じゃあるまいに

 人間、心の底から驚くと、誰しも咄嗟に声を出したりなどできないものだ。今のように、鳩尾付近に強い負荷が掛かっている状態であれば尚更。元々前線に出たいと強く思っていたわけではないのだが、不意の出来事に対して固まっていることしかできない名前では、オペレーターになることなどそもそもが夢のような話だったのだろう。せいぜいトランスポーターの真似事をするのが関の山だ。
 自分の胴に巻き付いているものが、気配もなく隣に立っていた男のその長い尾だと気付いた頃、漸く名前は口を開くことができた。「そ、宗師……」
 若い男。名前が玉門で生まれ、そしてロドスで後方支援に従事している今に至るまで少しも顔貌の変わらないその男は、にこりと微笑みのようなものを浮かべてみせた。
「此処ではお前の方が先達に当たるのだろう。チョンユエで構わない」
「チョンユエ、さん」
 玉門の英雄、比肩する者なき武人、炎国の誉れ高き大宗師、そしてロドス・アイランド製薬の新人オペレーターであるチョンユエは、言葉を詰まらせた名前に対しても別段気を悪くした様子もなく、ただ静かに見つめ返しただけだった。

 チョンユエは名前の求めに応じ、元のように床に立たせてくれはしたものの、彼のその長い尾は未だ名前の胴に巻き付いたままだった。転びそうになったところを助けてもらったまでは良いが、いつまでも巻かれている理由は無い。力一杯絞められているというわけではないので、恐らく動こうと思えば動けるのだが、何となく名前はそのまま動けないでいた。小柄なリーベリとしては、一刻も早く解放して欲しかった。純粋な尾の筋力だけで自身の体を持ち上げられたのも、正直言って怖い。「あの、チョンユエさ――」
「ドクターとは懇意にしているか?」
「……はい?」
 急な話題に、随分間の抜けた声が出てしまった。
 ドクター。博士や医師を示すヴィクトリア語だが、ロドスにおいてはただ一人を指す言葉だ。名前はドクターの顔を――黒いフェイスシールドに覆われ、性別どころか種族すらも判然としない指揮官の顔を思い浮かべながら、「普通、だと思いますけど……」と呟いた。何故そんな事を聞かれるのかも解らないし、長い尾が巻き付いた今の状態のままだと、何を言おうとしても尻すぼみになってしまう。
 名前の困惑を正しく読み取ったのだろう、チョンユエは笑みらしきものを湛えたままだ。
「なに、ドクターが朝の調練に姿を見せぬのでな。奴自身を鍛えようというわけではないのだ。無論、望むのなら体術指南をしてやっても良いが。指揮官が顔を出せば、兵達の士気も自ずと上がろうというもの」
 急ぐ話ではないから、顔を合わせた時にでも訓練場に来るよう言っておいて欲しい。チョンユエはそう言って言葉を結んだ。戦闘オペレーターの幾人かは、朝方自主的に鍛錬を積んでいると聞くので、恐らくその類だろう。名前が頷くと、彼は再び微笑みのようなものを浮かべた。「……あの、チョンユエさん、」
 そろそろ尾を離してもらってもいいでしょうかと小さく言うと、チョンユエは初めて表情を崩した。


 玉門に居た頃、名前がチョンユエを見たのはただの一度きりだ。戦勝を願う祝典の折、炎国の高官達と並び、ひっそりと佇んでいた。無論、遠目からほんの僅かに眺めただけだが、その凛とした佇まいは名前の記憶に深く刻まれている。そしてそのチョンユエがいま、こうして自身の眼前に立っているというのは、何とも奇妙な巡り合わせだ。
 ぞろり、と、彼の人の尾が動く。
 段々と巻き付かれている胴の圧迫感が強くなり、堪え切れずたたらを踏む。しかし名前がバランスを崩し、彼の尾に全体重を掛けてしまっても、チョンユエは微動だにしなかった。リーベリの名前には信じ難いことだが、彼はきっと尾だけで他人を害せるのだ。「ぐ」、とも、「う」、ともつかぬ音が名前の口から漏れ、彼の尾に必死でしがみつき、爪先立ちになって転倒を何とか堪えたところで、漸くチョンユエは口を開いた。
「……なかなかどうして難儀なものだ」

 ――絞め殺される。
 一瞬そう思ってしまったのも、あながち間違いではなかったのかもしれない。名前が幼い頃から――それよりもずっと以前から姿の変わらないチョンユエは、単なる長命種ではないのだろう、というのが玉門に生まれた者の総意だ。少なくとも今、名前を見下ろすチョンユエには、人間味というものがまったく感じられなかった。何かずっと強大なものが、人の形を象っているだけなのではあるまいか。
 しかし、終わりはあっけなく訪れた。チョンユエはゆっくりと尾を動かし、名前を元のように立たせてくれた。そしてそのまま、するすると自身の元へ戻していく。すまなかったな、とチョンユエがそう言った時には、先ほどまでの不穏な雰囲気はすっかり消え失せていた。彼の顔には、また微笑みのようなものが象られている。
 その男の紅い目に映るのは、人間という種に対する深い慈しみだけだ。
 まさか名前を殺そうとしたわけではないだろうが――殺される理由も無い――おっかなびっくり「はい……」と呟く事しか名前にはできなかった。かなり後になってから、あの時は独りでに動く尾を御せなかったのだと照れたように言われたが、何一つ安心できない。

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