そして静謐は来たれり

 ヂャギリと、今日も鈍い音が鳴る。


 再三の呼び掛けに、名前は漸く背後を振り返った。見下ろした先に居る、美しいドールビッグホーンの青年――ピナはその柳眉を微かに寄せたまま、「耳が聞こえなくなっちゃったのかと思ったよ」と口にした。どこか小馬鹿にしたような言い振りに聞こえるが、名前は特に気にしなかった。それは名前がまったく怒りっぽくないことも関係しているが、一番は、ピナという青年がいつでもそういう話し方をすることを、名前がよく知っているからだ。
 演劇部にスカウトされたらしいのだが、まあ確かに役者には向いているかもしれない。顔も良いし。
「ピナくん……」
「メスヒツジの子達と遊ぶんだけど、頭数足りなくてさ、名前も来ない?」
「ピナくん前もそう言ってたけどさ、後から聞いたけど、最初から頭数に僕が入ってたらしいじゃんか」
「あれ、何だ知ってたの」ピナは少しも悪びれない。
 遊ぶと言っても、実際は男女の数匹が一緒にファミレスに行ってだべったり、せいぜいカラオケに行ったりするだけだ。わざわざ七面倒くさい外出許可を取ってまで、不埒な行為に耽ろうとする生徒はそう多くない。合同コンパの真似事――来る女の子は皆ピナ狙いなので、オス側はあまり集まらないのかもしれなかった。
 リオナちゃんはどうしたのと尋ねれば、「別れたよ」と事もなげに返事が来る。
「名前と居るとさあ、映えるんだよね。僕のこの美しい角がさ」
「だと思ってたよ」
 貴方のことを引き立て役にしています、だなんて、本来は口が裂けてでも言うべきではないが、ピナにはそれをしても許されるだけの美しさがあった。お洒落やら、見栄えやらに全く興味のない名前でも、彼を見ると、美しいとはこういう事をいうのだろうと納得してしまう。
 ――ピナの類稀なる美貌と、そしてそれに見合うだけの傲慢さは、正直なところ、名前には好ましかった。自分には何一つ無いものだからなのかもしれない。もしくは自分が絶対に真似できないからか。
 もっとも、彼のそういうところを嫌う輩も多く居るのだろうと、そう理解もできるのだが。
 ふと気付くと、ピナが名前の正面に立ち、その大きな双眼で名前を見上げていた。思わず小さく後ずさってしまうと、ピナはふっと笑みを浮かべた。小馬鹿にしたような、それでいて慈しみすら浮かんでいるような顔だ。「名前ってモテそうなのにな」
「……僕がっていうより、ライオンがでしょ」
 名前が言うと、ピナは小さく笑った。名前は自分がモテない男であることは自覚している。どんなメスだって、いくらライオンとはいえ、鬣の生え揃っていないようなダサいオスは願い下げだろう。痩せぎすなのもマイナス点だ。

「やっぱり角が無いからかな。メス受け良いんだよね、この角」
 ピナが自慢の角について喋っている間、名前の尾はゆらゆらと横に揺れていたのだが、ピナは気にしなかった。もしかすると気付いてもいないのかもしれない。こういう時、大抵の草食動物は、名前の動向を注意深く伺っているものなのだが。
 結局そういうところなんだよな、と名前は心の中で溜息をつく。
「ねえ、名前はどう?」
「何?」
 ピナの片耳がぴくりと揺れた。「この角見てさあ、名前は何か思ったりしないわけ?」
 名前は元来気の長い男だ。百獣の王として生を受け、揶揄され、畏怖されて生きてきた。やっかみも、羨望も、恐怖も、全て慣れ切ってしまっている。たかが偶蹄類に何を言われようと、笑って受け流すことができる――本来であれば。
「――美味そうだなとしか思わねえよ、って、言えばピナくんは満足するわけ?」
 よほど名前の仏頂面が面白かったのだろう、おかしそうに笑い出したドールビッグホーンに、名前は今度こそ溜息を吐き出した。そういうの肉ハラになるからやめなねと言い添えたが、ちゃんと聞いているのかどうか。


 ネコ科の生態時間は、他の種に比べると比較的自由だ。春の日差しを再現した白熱灯の下、名前達は皆思い思いの行動を取っている。日向ぼっこをしたり、爪を研いだり、それから――鼻面を突き合わせてひそひそと話し合ったり。普段は名前も、部屋の隅で一匹ぼーっとしているだけなのだが、知った名前が耳に飛び込んできたおかげで、重い腰を上げざるを得なかった。
「ピナの奴、調子乗りすぎなんだよ!」

 オスライオンは基本的に群れない。百獣の王などと持て囃されるせいか、妙な見栄を張るからだ。孤高であるべき、そう考えるオスライオンは多いし、何ならライオン以外の動物もそう思っている節がある。彼らが徒党を組むことがあるとすれば、つまりはその大半が後ろ暗い理由なのだ。
「ちょっと顔が良いからってお高く留まりやがって」
「俺達肉食が譲歩してやってんだって、ちゃんと解ってんのか? それを『猫臭いのが移るからそこ退いてくれる』……何様のつもりなんだよ」
「なあ、今度ちゃんと言ってやった方が良いんじゃねえか?」
 顔を見合わせ、そうだそうだと言い始めた同級生達に、「それ、僕らがやったら駄目なんだって解ってる?」と名前は口を出した。
 肉食による草食への加害は、校則違反どころか重罪だ。それを匂わせる行為だけでも罪に問われる場合があるし、そもそもモラルに反している。しかしながら、此方を向いた彼らは「元はと言えば、お前があんな奴に良いようにされてるから俺らも低く見られんだぞ」とがなった。藪蛇だったかもしれない。

 別にピナが高飛車に接するのはライオンだけじゃないし、何なら草食にだってあいつを嫌ってる奴は多いよ、と名前が言ったところで、焼け石に水だろう。ピナだって、流石に面と向かって喧嘩を売ったわけではないだろうが、群れて気が大きくなっているこのライオン達が何をしでかすかは解ったものじゃない。最悪の事態だって、有り得ないとは言い切れないのだ。


 再三の呼び掛けに、名前は後ろを振り返った。ピナだ。
 ピナは「何回も呼んだのに。耳が聞こえなくなっちゃったのかと――」と言い掛けてから、「名前、なんか身体おっきくなった?」と首を傾げた。
「……別に、前と変わんないと思うけど」
「そう?」
 数か月ぶりに会ったドールビッグホーンは、以前と変わらぬ美しさを保っていた。毛皮は純白だし、角には傷一つない。絶対前よりおっきくなってると思うんだけどな、と呟くピナに、名前は「気のせいじゃない?」としらばっくれる。
 ――確かに、名前は以前より制服がワンサイズ大きくなったし、ピナと話そうとすると以前より下を見なければならなくなった。が、それを伝えたところで何も始まらないだろう。しかしながら、ピナは訳知り顔だ。「ふーん、あっそ」
「鬣切るの、やめたの正解だよ。言ったっけ? その方がモテるって」
「……ピナくんてさあ……」
 少しでも威圧感が無くなるように、自分で鬣を切っていたこと。そして切らなくなったのは、貧相なライオンが隣に居ることですら諍いの種になるのなら、いっそ開き直ってやろうと考え直したこと。名前の三か月の謹慎の理由が生態時間での乱闘騒ぎであり、名前から先に手を出したのだということ。挙句、その理由が、友達を馬鹿にされていたのがむかついたからだということ。体が一回り大きくなったのは生まれて初めての喧嘩で大型ネコ科の闘争本能が呼び起されたからだし、オスライオン三匹を病院送りにしたことで、草食達だけでなく肉食棟でも名前は周りから一歩引かれるようになったこと。
 全て見透かされていたのだろうかと思うと、心底馬鹿馬鹿しくなる。そしてそれと同時に、モテたい相手にモテなければ意味がないと思っていることもばれているのかと思うと、本当に居た堪れない。

 それでもきっと、名前はこれからもこの、ひどく美しいドールビッグホーンに勝つことはできないのだろう。例え、名前が一握りするだけで壊れてしまうような、か弱い草食獣だとしても。
 ちょいちょいとピナに手招きされ、名前は身を屈める。耳元で囁かれた「その方が似合ってると思うよ、僕もね」という言葉は、ゾッとするほど蠱惑的だ。名前はもう二度と、切れ味の悪い鋏を使うことはないだろう。

[ 216/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -