サヴラとフォルテとザラックと

 割と大きな声ですぐ背後から呼び掛けられた時、勢い良く飛び上がってしまうのは、きっとザラックとして生まれた者の性だ。いや、ドロシーさんが飛び上がって驚いているところなんて想像ができないので、単純に名前がびびりなだけなのかもしれない。
 恐る恐る振り返ったが、一見すると、背後の通路には誰も居ないようだった。名前は念のため上へ下へと目線を走らせたが、やはり誰も居ない。しかしながら、虚空をじっと睨み付けると、ほんの僅かに景色が揺らいだ気がする。ステルス無効化要員としてドクターの指揮に組み込まれるのもそう遠くないななどと思いながら、「イーサン、驚かせるのやめてよ!」と名前は声を張り上げた。
 名前の声に呼応するように瞬く間に姿を現したのは、当然のことながら名前と同じオペレーターに所属しているサヴラのイーサンだった。もっとも、彼が居たのは名前が想定していた位置より二、三歩分右隣だ。名前はそれを気取られないように、視線を彼に向けつつ素っ気ない表情を維持するよう努めた。
 イーサンが言った。「悪い悪い、名前がいっつも良ーい反応返してくれるもんだからさぁ」
「もう、そんな事言って! 自分より小さい子が居るのが面白いだけでしょう!」
「おっとこりゃ失礼」
「イーサン!」
 両手を上げ、降参のポーズを取ってみせるイーサンに、名前は怒ったふりをする。
 イーサンが名前を脅かすのは今に始まったことではなく、正直なところ慣れ切ってしまって怒る気にもならないし、そもそも本当に怒ったところでイーサンは少しも気にしないので、名前は怒る真似をするだけだ。もっとも、今までに彼に対して本気で腹を立てたことなどなかったが。
 以前は別の組織に居たらしいイーサンというオペレーターは、名前に会うたびに、こうして脅かしたりするのが常だった。彼はアーツで姿を消せるのだが、驚かせる為だけにアーツを使うのはどうかと名前は思っている。ザラックの中でも小柄な名前は、どうやらイーサンからするとからかいやすくて仕方ないらしかった。名前は慣れてしまったが、ロドスには名前よりももっと怖がりな子も居るので、いい加減注意しなければならないかもしれない。
 名前が口を開く前に、イーサンがずいっと紙袋を差し出した。
「――なに、これ?」
 たまには何か言ってやらなければと思っていたのに、口から出てきたのは間抜けな二単語だ。それと同時に、名前の小さな鼻が、紙袋から漂う香ばしい匂いを嗅ぎ分ける。「名前にゃ、いっつも迷惑かけちまってるからさ」

 イーサンが差し出した茶色の紙袋は片手で持てるほどの大きさで、実際に持ってみると存外軽く、少し動かしてみると、中からはかさかさとした音がする。よくよく見てみれば小さく油染みのようなものも浮かんでいて、どうやら食べ物が入っているらしかった。促されるままに開けてみると、中には手作りらしいビスケットが数枚入っている。
「たまには俺も、感謝を形にしなきゃなーって思って。ていうわけでお裾分け。うまいぜ」
 袋の中の美味しそうな匂いのする手作りビスケットを見てから、再びイーサンに視線を戻す。イーサンはにこっと笑うだけだ。
 彼のことは器用だとは思っていたけれど、まさかお菓子まで作れたんだろうか。
 手に取って見てみると、色も形も綺麗で、かなり上等なビスケットだ。もしかすると既製品かもしれないとも思ってしまう。香り立つバターが何とも美味しそうだ。心のどこかで違和感を感じていたといえば嘘ではないが、鼻腔を擽るような匂いに釣られてしまったことも否定できない。
 お礼を言って一口齧ると、初めは一瞬柔らかい塩味があった。が、その後からじわじわ沁みてくるミルクの深い味が絶妙だ。甘すぎず、かといって薄味でもなく美味しい。こんなに美味しいビスケットが焼けるなら、きっと店だって開けるに違いない。
「イーサン、これ、すっごく――」
「喜んでくれて良かったぜ」イーサンがにっこりした。彼の八重歯がきらめいていたように見えたのは、きっと気のせいだろう。ごく、と口の中にあった最後の一口を名前が飲み込んだ時、イーサンが言った。「よし、これで名前も共犯だな!」
 名前は瞬間的にすべてを理解したが、もう後の祭りだ。――てっきり、名前はこのビスケットをバターの風味が強い、プレーンの、しいて言えばバター味のビスケットなのだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。バター味ではなく、バター茶味のビスケットだったのだ。


 バター茶。テラの中央付近、標高の高いごく一部の国で作られている、高脂質の飲み物だ。塩味が強いのは、海の無い地域で主に作られる為、塩分補充としての側面があるからだ。名前は馴染みがなかったが、その地方では一般的に親しまれているお茶らしい。
 イェラグ出身の者は当然ロドスにも居るし、オペレーターにも何人か心当たりがあるが、わざわざビスケットを――しかも、こんなにも美味しいビスケットを焼ける人間は限られている。
「こ、これ、マッターホルンさんの……」
「そうそう。すげー美味いよな」
 俺が作ったんだぜ、という返事を期待しての言葉だったが、その期待は即座に打ち砕かれた。先ほど少しだけ感じたときめきも、すっかり霧消してしまった。
 マッターホルンはイェラグ出身の重装オペレーターだ。噂では、元々料理人だったのだとか。外勤が主らしくロドスに居ることは稀だったが、時折食堂を手伝っているようで、彼が作ったのだろう煮込み料理は絶品だった。自他共に厳しい男だが、同時に非常に誠実でもある。
 そして、そのフォルテはイーサンとかなり折り合いが悪い。もっとも、二人は憎み合っているというわけではない。イーサンがよく食堂の料理をつまみ食いしており、真面目なマッターホルンとしてはそれが許せないのだ。
 マッターホルンがイーサンを叱り付けている光景は、名前も遠目から見たことがあった。彼の剣幕ときたら、食器がびりびりと震えんばかりの凄まじい迫力で、自分だったら耐えられないかもしれないと思ったものだ。あの時は、近くに居た子供が泣き出してしまったことで、説教がおしまいになったのだ。
 つまみ食いも初犯であれば、マッターホルンもああも怒らないのだろう。しかしイーサンはたびたび食堂から食べ物を失敬しており、何度も調理班からのお叱りを受けていた。マッターホルンが激怒するのは当然だ。
 しかも――今回はバター茶味のクッキー。恐らく、マッターホルンが彼の主人の為に手ずから作った逸品だ。詰んだ。

 名前が絶望していることに気付かないまま、イーサンは「まだ食べるだろ?」と笑っている。普段であれば食べ物を進んで分けてくれることなどほぼ無いので、先ほど彼が言った共犯という言葉が嫌でも思い返される。
「も、戻せば許してくれるかな……」
「おいよせ!」
 震えながら呟く名前に、ギョッとしたようにイーサンが言った。
 ちょうどその時、通路の奥の方から足音が聞こえてきた。大柄なフォルテの成人男性が怒りながら歩いているような、どすどすとした大きな足音だ。
 マッターホルンさんに殺される、名前がそう呟くと、イーサンは微妙な顔で名前を見た。

 マッターホルンの足音(推定)が近付いてくるに従って、名前の焦りは比例するように大きくなっていく。頭の中に浮かんでいるのは命乞いの言葉だけだ。もちろん殺されると本当に思っているわけではないのだが、あの剣幕で怒鳴られたら死んでしまうかもしれない。通路の曲がり角から怒り心頭な様子のマッターホルンが現れたのと、あんまり名前が怖がるものだから哀れに思ったイーサンが名前を抱き締めて透過したのは、殆ど同時だった。
 声にならない悲鳴を上げた名前に、ごく近くから「絶対喋んなよ」と小声が降ってくる。何も見えない――何なら自分の体すら認識できない――が、イーサンが自分を抱きすくめているのは理解できる。彼が自分が触れているものなら生き物だろうと透過できるということを、名前はこの日初めて知った。
 いくらアーツで姿を消していようと、存在自体が消せるわけではない。その為服と服が擦れ合ったり、名前の心臓が早鐘のように鳴りまくっていたりと、それらの音は聞こえている筈だ。しかし、どうやらマッターホルンは二人の存在に気が付かなかったようだった。
 マッターホルンが通り過ぎていき、その足音が聞こえなくなった頃、イーサンは漸く名前を解放した。
「――俺より先に赤くなるなんてやるじゃねぇか」
 二重の意味で緊張が最高潮に達していた名前の顔は、普段よりもだいぶ血色が良かった。ただでさえザラックは他の種族の者より脈拍が早く、そのせいで寿命が短いだなんて科学的根拠の無い噂があるのに、本当に寿命が縮んだらどうしてくれるのだろう。名前が無言のまま殴り掛かると、イーサンは再び「おいよせ!」と言った。
 ちなみに、この後名前達(イーサンを説得するのは骨が折れた)はマッターホルンに謝りに行ったが、彼は特大の雷を落としたものの、簡単なお説教で許してくれた。珍しくイーサンが自首してきたことも、もしかすると関係しているのかもしれない。

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