もいだトマトの実はふたつ

 研究所で栽培している野菜や穀物は全て無農薬だ。もっともそれは、農薬を使用した場合のデメリットを気にしてのことではなく、農薬の在庫が尽きかけていること、農薬として使用できる資源が限られていることなどが理由として挙げられる。この研究所のお偉方はあくまで欠損した人体の再生や、それに類似した人体に関しての能力についてが主な研究対象であって、タマネギやキャベツを無限栽培することは不得手なのだそうだ(培養技術を用いて文字通りの無限白菜を作ることは必ずしも不可能ではないそうなのだが、それを長期で食用した場合の臨床実験が済んでいない為、非推奨ということらしい。長期摂取の結果、足が複数生えてきたりしても責任は負いかねると言われた。怖すぎる)。
 実際のところは雪で閉ざされた山の中、完全屋内で栽培している以上、虫や鳥、病気などにやられる心配は少ない。従って農薬は通常より控えめで良いし、それどころか作物の世話自体も最低限で良かった。無農薬だろうと何だろうと、餓死しない程度の収量は現時点で既に達成している。それでも名前がよくこの農場に居るのは、何の技術も持っていない名前が、この場所でできる仕事は限られているからだ。名前は職員の身内だからこの場所に置いてもらっているだけの一般人だ。農作業どころか土にすら今まで触ったことはなかったが、イペリットに殺されるまでの日数を数えるだけよりはずっと気が紛れる。
 名前さん、と呼び掛けられ、名前は作業の手を止めてゆっくりと立ち上がった。体を起こすついでに、凝り固まっていた背中の筋を伸ばす。声の主は当然デルウハだ。
「言われたコンテナは全部運んでおきました。他に何か困っていることはありますか」
「ありがとうございます、今のところは大丈夫です」
 困ったような、ともすれば申し訳なさそうな表情を浮かべたデルウハに、自分まで何となく申し訳なくなり、名前は「デルウハ殿のおかげで早く済みました」と付け加えた。
 デルウハは少し前にこの研究所にやってきた軍人だった。いつも明るく朗らかな気のいい青年で、体格も良く、他の人が嫌がるような力仕事も楽々こなしてくれる。都合さえつけば農作業も手伝ってくれるし、顔立ちが良いこともあって、少なくとも名前の周りでは彼を悪く言う人間は居なかった。どうやら軍人としてもかなり優秀な部類に入るようで、彼のおかげでイペリットから受ける被害が以前よりも明らかに少なくなった。また、彼はあの気難しいハントレス達とも上手くやっているらしい。
 本来はもう少し違う名前のようなのだが、日本人にはあまり聞き慣れない音で発音し辛いこと、そして尊敬と感謝の念を込め、名前達は彼のことをデルウハ殿と呼ばせてもらっている。
 同じような境遇――研究所職員ではない彼が有用な人材であればあるほど息苦しさが募っていくので、名前は彼の事は苦手だった。が、決して嫌いというわけではない。今日のように、自身も連日のイペリット迎撃で疲れているだろうに、何か手伝えるかと尋ねてくる彼は、どこか大型犬を彷彿とさせるところがある。もっとも、犬を飼ったことはないのだが。
 そうだ、と名前が呟いたのが聞こえたのか、デルウハがひょいと眉を上げた。
 名前は再び屈み込み、生っていたトマトを一つ二つもぐと、不思議そうな顔をしているデルウハの方に差し出した。
「よかったらデルウハ殿も食べますか?」
「……俺に?」
 頷こうとした時、名前は漸く、デルウハの顔から表情というものが一切消えていることに気が付いた。

 デルウハは、いつでも人好きのする笑みを絶やさない男だ。少なくとも、名前の前では。それが彼の出身地のお国柄によるものなのか、それとも彼なりの処世術なのかは知らないが、彼がこうした表情を名前に晒すのは初めてのことだった。
 吟味されている。
 何故だか解らないが、ほんの一瞬、名前は確かにそう感じた。

 トマトが嫌いだったのかもなと思いながら、育ちを良くする為に出来の悪い実を選別しているのだと名前は説明した。限られた栄養で少しでも美味しいものを作るには、一つの苗に生る個数を減らして栄養を集中させなければならないのだ。特にこの品種は下段を予め少な目にしておかないと、上段の出来が悪くなってしまう。
 摘果についての共通語が解らず少々時間が掛かったが、名前が話し終える頃には、デルウハはまた元の顔に戻っていた。「摘果は俺も好きです、合理的なので」
 にこにこと笑っているデルウハに名前は心底ほっとしたし、同時に自分が今、異様なまでの緊張感に包まれていたことを理解した。

 名前が取ったトマトは摘果が遅れてしまって多少大き目ではあったものの、当然熟してはいないし、何なら赤色というよりも緑色の方が近い。美味しくないことは誰が見ても解るので、てっきり断られるだろうと思っていたのだが、名前が「何日か日に当てておけば多少食べられるようになりますよ」と言う前に、デルウハは名前が手渡したトマトに齧り付いていた。
「うまいですね」
 大きく齧り取られた青いトマトから、仄赤い汁が垂れている。その垂れた汁をも舐め取ったデルウハは、名前が見ていたことに気付くと微かに照れたような顔をし、「トマトの味がしてうまいですよ」と付け加えた。
 名前が思ったことをそのまま素直に口にすると、デルウハは一瞬ぽかんとした後、声を上げて笑った。

 デルウハが去っていった後、農場に再び来訪者が現れた。所長だ。この男はいつもどこか困ったような顔をしている。名前が居住まいを正そうとすると、所長は「そのままで構わないよ」と静かに言った。いやに気を遣ったような言い方だ。
「デルウハ殿と、何の話をしていたか聞いても?」
 所長はそう言ってにこりと笑みを浮かべた。デルウハのそれに比べると、随分幼稚な作り笑いだ。
 彼の来訪はてっきり栽培の様子見か、収穫量の確認に来たのだろうと踏んでいたので、彼の言葉は寝耳に水だった。外部の人間である名前達が懇意にしていると何か不都合があるのか、そんな風に考えた名前だったが、名前ではなくデルウハを警戒しているのではないかと思い至った。彼はこの施設の代表であり、デルウハと接する機会も一番多い。彼の厚意に甘え過ぎるのも良くないと考えているのではなかろうか。
 しかし、特に何の話をしていたわけでもないので、正直答えに困る。
「何の話と言われても、ハントレスの子達にご褒美をあげたいんだけど良い案は無いかとか、そういうことは話しましたかね」
「ご褒美?」
「はい。いつも頑張って貰ってるからと。あの子達も甘い物は好きなんじゃないかって話になって、で、サトウキビは難しいと思いますけどテンサイなら何とか作れるんじゃないかなと思うのでやってみるとはお伝えしました」
「……それだけ?」
 怪訝に思っているのが顔に出てしまったのか、所長は「先ほど、デルウハ殿が随分笑っておられたようだから」と付け加えた。
「ああ……」名前が言った。
 ――もしや、所長はかなり前から此方の様子を伺っていたのではなかろうか。単なる世間話でなく、本当にデルウハを探っているのではないかと思えてきた。あまり知りたくなかった事実だ。
「食堂の担当からデルウハ殿がよく召し上がられるのは聞いていたので、トマトを差し上げたんですよ。トマトと言ってもまだ青いやつなんですけど、少し置いておけば赤くなるので。そしたらデルウハ殿がそのままお食べになってしまって、しかも美味しくないに決まってるのに『うまい』と仰るので、食いしん坊なんですねえって言ったんです。そしたらそれが面白かったのか大笑いされました」
「く、くいしんぼう……」
 所長は、言葉に詰まったようだった。

 デルウハをどう思っているのかと尋ねられ、名前は再び所長を見た。相変わらず困ったような、ぎこちない笑みを浮かべている。
「まあ、あの方はいつも我々に親切にして下さいますし、良い人だと思いますよ」名前は考えながら言葉を選んだ。「今日も荷物を運ぶのを少し手伝って頂きました。特別仲が良いわけではないと思いますが、まあ悪いということもないかと」
「……そうなのかい?」
「何が仰りたいのかよく……」
 所長は視線を彷徨わせた。「その、デルウハ殿と随分親密な様子だったから……」
 歳も近いし、と所長はごにょごにょ言った。まさか男女の仲を疑われているわけでもないだろうと思っていたのだが、所長がいやに気を遣って話している様子から、そうでもないのかもしれないと思えてきた。
「……その言い方だと、デルウハ殿に何らかの問題があると言っているようですが」
「もちろんそういう事じゃないさ」
 いやに早口だ。名前は所長の作り笑いを眺めつつ、再度口を開いた。「心配されるような事は何もないですよ」
「それに、こう言ってはなんですけど、デルウハ殿はどうも合理的というか、情が無さそうというか、ああいう方は苦手ですね、恋愛対象としては」所長の顔がひくついたが、それがどういう意味なのかは考えないことにした。

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