セントエルモの火

 名前が作業室に訪れた時には、既にMechanistは眠りに落ちていたようだった。
 第三区画の作業室は、殆どエリートオペレーターの御用達となっていて、エンジニア部に配属されてから数ヶ月経った今でも、名前が訪れたのは数えるほどだった。それくらい、一般オペレーターには近付き難い場所なのだ。何でも、初めはロドスの中枢を担っていたのだが――今でこそ小規模の移動都市の様相を呈しているが、始まりは掘っ立て小屋のようなものだったらしい――、癖の強いオペレーターが集いすぎて隅に追いやられただとか、クロージャの陰謀だとか、散々なことを言われている。真相は定かではないが、どうやら使用している本人達は、どれだけ一般オペレーター達に遠巻きにされていようが何も気にならないらしい。名前の直属の上司であるMechanistも専ら此処に入り浸っており、彼にしても、邪魔が入らなくて良いと思っているようだった。
 この日名前がそんなエリートオペレーター達の巣窟を訪れたのも、Mechanistに用があってのことだった。名前が現在取り組んでいるプロジェクトには彼の承認が必要であり、その他にも二、三聞きたいことがあったのだ。彼は開発部の方にも専用の工房を構えているのだが、そちらには居なかったため、作業室に居るだろうと判断した。事前の連絡はしなかったが、作業室への入室権限は名前も持っているため問題はなかった。
 そして――確かにMechanistは一人作業室に居た。簡易の作業台に突っ伏し、ぴくりとも動かない。

 眠っているらしいMechanistを前に、名前は元々閉じていた口を更に引き結んだ。来た意味が無くなってしまったからだ。もちろん事前に連絡を入れていなかったわけだし、自分が悪いことは重々承知しているのだが。名前はどうしようか迷ったものの、結局、なるべく音を立てないように、そうっとMechanistに近付き始めた。
 寝ている。寝ているようなのだが、寝ているというよりも、むしろ気を失っていると言う方が近いんじゃなかろうか。ジャケットこそ作業台の端にうっちゃられているものの、普段のヘルメットもそのままだし、まったく微動だにしない。彼が腰を下ろしているのは作業室に備えられているただのスツールで、医療部の面々が見たら怒り出しそうな姿勢になっている。もっとも名前はエンジニア部なので、彼がどんな体勢で寝ていようと何かを言ったりはしない。
 作業台の上には彼が外勤任務に出る時に使うアーム型の補助装置が置かれていた。Mechanistはそのコードネームが示す通り技術者で、ロドス内のあらゆる物の設計、開発に携わっている。一部のオペレーターの武器は彼が手ずから作成したものだというし、彼のアームも自身の手で調整しているのだろう。広げられている設計図や、剥き出しの内部回路を一瞥してから、再びMechanistに向き直る。名前がすぐ隣に立っても、彼は何の反応も返していなかった。
 やはり、彼は寝ているのだろう。そう判断した名前は、伸ばした手を掴まれて文字通り飛び上がりそうになった。

 ゆっくりと身を起こしたMechanistは、「寝込みを襲おうとしていたのか?」と冗談混じりに言った。もっとも、その声は硬い。
「――ごめんなさい、寝ているとは思ったのだけど、ちゃんと息をしているか心配になったのよ」
 フルフェイスのヘルメットに覆われているため、彼の表情は読めなかったものの、名前は何となくMechanistが笑っているのではないかと思った。
「それは世話をかけたな」Mechanistが言った。「だが仮に私が寝ていたとして、真っ先に手を伸ばすのが私のヘルメットで良かったのか? 君は技術スパイとしてロドスに入ったのだと認識していたが」
 名前は絶句した。


 全身の血が一瞬で冷え切ってしまったような、そんな心地だった。熟睡しているとばかり思っていた相手に腕を掴まれた時も肝が冷えたが、今の名前はより深刻だ。何を言えば良いのかまったく解らない。表情の無い無機質なイエローのバイザーを前に、言い逃れができないことを本能的に悟る。
 数ヶ月前、名前はロドスという製薬会社に入った。履歴書を出し、面接を受け、ドクター達の承認を得、正規のルートで。何度目かの転職の後、ロドスにやってきた技術屋被れのクルビア人――名前の経歴はそれだけしか無かった筈だ。以前に勤めていた企業と今でも繋がっていて、情報を流すよう指示を受けていることなど、彼らには解らなかった筈なのだ。
 今まで、バレたことなんてなかったのに。
 しかし考えてみれば、名前が今までに入った会社をつぶさに調べれば、疑いの芽は出てくる筈だった。名前が勤めたどの企業も、安価な類似品が売り出された為に急激に業績が悪化したり、不祥事を起こして株価が下落したり、吸収合併されたりしている。名前はロドス製薬において、得た情報を艦の外に未だ持ち出しておらず、ただのエンジニアの一人に過ぎない。だのにMechanistが名前の素性を疑っている――知っているということは、名前が入社した時点である程度疑いの目で見られていたということだろう。もしくは初めからバレていたのか。ただの製薬会社だと侮った名前の、もとい名前の雇い主のミスだ。

 ――名前は特別背が低いわけではなかったが、Mechanistは名前よりずっと背が高いので、今まで彼を見下ろしたことは殆どなかった。こうして見上げられていると、より逃げ場がないような気がする。
 蒼白なまま、二の句が継げなくなった名前を見て、脅かすつもりではなかったんだがとMechanistは言った。彼の声音から、今すぐに刑務所行きになることは一先ずなさそうだと理解する。もっとも、今の名前が首の皮一枚で繋がっている状態には変わりがない。
「……そこまで解っていて私を雇っているの、どうかと思うのだけど」
「それは私も同感だ」
 肩を竦める大仰なジェスチュアに、そんな場合ではないのに思わず笑いそうになってしまう。自分が捨て鉢になっている自覚はあったが、だからこそ「私に用があったのか?」と尋ねられたことで心底動揺してしまった。
「え、ええと……このプロジェクトのことでいくつか確認させて欲しくて……」
「ああ、それは――」

 名前が手渡した資料に真剣に目を通しているMechanistに、名前はわけが解らなくなってしまった。他企業から技術を盗む為に入社したのだと突きつけたのに、特にその事に対し咎めることなく普段の業務に戻っている。
 牽制しただけなのだろうか? 本当に?
 そんな馬鹿な話がある筈がない。そう思ってはいるのだが、Mechanistがそれ以上話題を続ける気が無いらしいことに動揺してしまう。彼は名前にいくつか確認を取った後、表紙の端にサインをし、資料を名前に返した。「どうした?」と小首を傾げてみせるエリートオペレーターに、名前は仕方なく「転職先が見付かるかしらと考えているの」と自分から口にした。
「転職? 君はまだロドスに来たばかりだろう」
「だって……このまま、此処に居るわけにはいかないでしょう」
 そう言った名前を前に、Mechanistは暫く口を閉ざしていた。「……君がどうしてもドーナツ屋に戻りたいというのなら別だが」
「君がロドスに来た時から、我々は君が以前所属していた企業の指示で此処に来たことを把握していた」
 Mechanistの言葉に、名前は心の中で「やっぱり」と呟く。
「しかし例え君がロドスが開発、占有している技術を他所へ持ち出されたとしても、君のその技術力や知識には替えられないと判断した。大学時代に君が発表した論文だが、私も目を通した。君が研究していた源岩の加工技術の最適化及び使用用途、それらは我々にとって必要だし非常に重要だ。同時に、君自身が卓越した加工技術を持っていることも、君を必要とする理由の一つだ。最終的な判断を下したのはケルシーだが、君のことは私も推薦した。君がロドスに来たことは、我々にとっては願ってもないことだった。それに」
 Mechanistは少しだけ間を空けた後、「鉱石病患者に対する君の献身は、非常に高潔なものだ」と付け足した。


 いつの間にか、冷え切った筈の体温が元通りになっていた。自分でも現金なものだと思う。何も言わなくなった名前を見て、Mechanistは今度こそ本当に笑っているようだった。
「……ロドスの業績が下がっても知らないわよ」
「問題はない。うちは非営利の組織だからな」
「どうだか……」
 もはや名前にその気が無いのを察しているのか、それとも自分であれば抑えられると思っているのか、Mechanistはどこ吹く風だ。
「此処に入る権限を得ておいて、真っ先に手を伸ばすのが私のヘルメットなところから察するに、君にスパイは無理だな」
「言ったでしょう、眠っていると思ったのよ」
 その作業台は貴方の寝床だって聞いていたしと呟く名前に、Mechanistは肩を揺らしてみせた。「君がこの部屋に入って来たことは解っていたが、此方に来るとは思わなかったな」
「言っておくが、私は人前で、ましてや君の前で眠り続けるほど無警戒な男ではない」
「ドクターは私の前でも寝ていたから……」
 微妙な沈黙が降りた。最高責任者の一人であるドクターは以前名前を秘書にしたことがあるが、確かにその時彼――もしくは彼女かもしれないが――は、名前と二人きりの執務室でぐっすりと眠りこけていたのだ。これほど考え無しに隙を見せる人間がいるのだろうかと、逆に不安になった覚えがある。Mechanistの「ドクター……」という呆れの滲んだ呟きに、名前は漸く微かな笑みを零すことができた。

[ 210/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -