白いココガラ 角の生えたポニータ

 ジニアが現れたのは、校内放送を流してからものの数分も経たない内のことだった。走ってきたのだろうか、彼の顔は微かに上気しているような気がしなくもない。
 ――ジニア先生、クラベル校長先生がお呼びです、校長室へお越し下さい。
 たったそれだけの文言でやりとりがスムーズになるならば、今後も放送で呼び出すべきだろうかと少しだけ思ってしまう。普段、クラベルがジニアをスマホロトムで呼び出した場合、彼は大抵遅れてくる。五分、十分程度なら可愛いもので、クラベルが覚えている範囲では、七時間経ってからやってきた事もあった。既読がついていたにも関わらずだ(彼と仕事をし始めたばかりの頃は、ロトムが気を利かせて勝手に既読にしているのではないかとすら思ったほどだった)。
 兎も角も、ジニアは校長室にやってきた。生物室からは距離があり、かなりの速度で走ってきたことはまず間違いないが、さほど遅れずにやってきたことに対して敬意を表し、今回は不問にすることにした。課外授業も始まっていて、校内に留まっている生徒が少ないからということもある。

 遅くなりましたあ、と頭を軽くかきながら校長室を訪れたジニアに、クラベルは溜息をもらした。しかしクラベルが彼に声を掛けるより先に、同じように校長室で彼を待っていた客人の方が先に声を上げた。「ジニア博士!」
「あれえ、名前さん?」ジニアが言った。「わあ、お久しぶりですねえ。けどどうしてアカデミーに? 部外者は入ってこられない筈でしょう?」
 名前は明らかに不満げな顔になったが、ジニアは少しも意に介さない様子だった。仕方なく、「妹さんが此方に通っていらっしゃるので、様子を見に来られたんだそうですよ」と説明を加える。なるほど、とジニアは頷いた。

 名前はフレンドリィショップの社員で、以前クラベル達が勤めていた研究施設によく訪れていた。注文品の搬入に始まり、新商品の提案なども担当していた。非常に働き者で、此方の要望もすぐに応えようとする勉強熱心な女性だったと記憶している。そして――彼女はいつしかジニアに恋に落ち、今に至っている。正直理由は知らないし、知りたくないし、そもそも同僚の恋愛事情などクラベルは知りたくなかった。
 クラベルが口を挟まなかったからだろう、二人はいつしか互いのスマホを取り出していた。主に、ジニアが名前のスマホロトムを覗き込んでいる。
「わあ、凄いなあ、203種類もずかんが埋まってる。流石名前さんですねえ、凄いなあ」ジニアが言った。「あれえ、どうして不機嫌そうなんです?」
 名前は答えるのを迷っていたようだが、やがて拗ねたように「嫌味ですか」と言った。「前に連絡した時からさほど増えてないじゃないですか」
「うーん、それはそうかもしれないですけど。けど名前さんは元々トレーナーでもなんでもなかったのに、それなのにこれだけのポケモンを集めているのはとっても凄いことなんですよ」
「………………」
 黙り込んだ名前と、そんな彼女を見ながらも普段通りの柔和な笑みを浮かべているジニア。クラベルは盛大に溜息をついたが、二人共気が付かなかったようだった。
「ずかん、後で見せてくださいねえ」
 ジニアはそう言ってから、「ぼくは校長先生とお話があるので」と付け足した。生物室の場所が解るかと尋ねると、名前は黙ったまま頷く。アカデミーは名前ではなく別の社員が担当していた筈だが、どうやら彼女は既に校内の位置関係を把握しているらしい。やはり仕事ができる人間は違う。そしてそんな彼女が何故こんなちゃらんぽらんな男に惚れ込んでいるのか、正直理解に苦しむ。

 ぼくも後で行くので待っててくださいと笑うジニアに、名前は「ジっ、ジニア博士……!」とどこか緊張した面持ちで言った。
「はい?」
「……約束、忘れてないですよね?」
「当たり前じゃないですか」ジニアが笑った。「あとぼく、今はもう先生になったので、そうやって博士って呼ぶの、やめてもらっていいですか?」
 名前はぎょっとしたように目を見開いたが、やがて意を決したように「ジ、ジニア先生……」と消え入りそうな声で言った。
「名前さんの先生になった覚えはないんですけどねえ」
「………………」
 からかわれたと思ったのだろう、名前は顔を赤くさせたが、クラベルの目があることを思い出したのか、口をぱくぱくさせただけで何も言わなかった。そして勢い良く比べるに対してだけ頭を下げ、失礼しますと言って校長室を出て行った。恐らく生物室へ向かうのだろう。


 すみません校長先生お待たせしました、と口にするジニアに、クラベルは眉根を寄せる。「待たせたとは?」
「あれえ、ぼくに何かお話があったんじゃないんですか?」
「名前さんが貴方に会いたそうだったので、此方で待っていてもらっただけですよ」
「ああ、そういう事でしたか」
 相手がジニアだという事は兎も角、名前に手を貸してやりたいという気持ちはある。クラベルだって、彼女の事は気に入っているのだ。今日だって、アカデミーに来たのでクラベルに挨拶をしにきたという名前を引き止め、ジニアを呼んでやったのだって、クラベルが勝手にしたことだ。名前はそんな事はしなくていいと遠慮していたが、その一瞬の嬉しそうな表情を、クラベルは見逃さなかった。
 どうやらジニアは、クラベルが自分を呼んだのだと思っていたらしかった。まあ、言わなかった此方にも非はあるのかもしれないが。このまま帰すのも忍びなく、クラベルは以前から気に掛かっていたことを尋ねた。「約束というと、例の……ずかんアプリが埋まったらどうこうというやつですか?」
「ずかんアプリが埋まったら、ぼくが名前さんとお付き合いするってやつですね」
 さも当たり前の事を言うように――くさタイプはほのおタイプに弱いのだとでも言うように――口にするジニアに、クラベルは黙りこくった。
 数年前、恋人になって欲しいと思いを告げた名前に、ジニアは一つの条件を出した。自分は恋人を作る気は無く、しかしもしもこのずかんアプリを完成させることができたら、名前の望みに応じると。
 以来、名前はポケモンずかんを完成させようと奮闘している。もっとも彼女はポケモン関連企業に勤めてこそいるものの、育成に関してはずぶの素人だ。その上、勤め人なので休日にしかポケモンに時間を割けず、完成まではまだ何年も掛かるだろう。ヤトウモリが何をやっても進化しないんです、と泣き言を漏らしていたのも記憶に新しい(その後、メスしか進化しないと知った時はかなりショックを受けたようだった。ジニアが言うには、名前のヤトウモリは既に60レベルに達していたらしい)。
 それでも、ジニアへの恋心がなせる業なのか、それとも生来の生真面目さによるものなのか、カムカメの歩みではあるものの、彼女のずかんは着実に埋まってきていた。

 口を噤み、黙り込んだクラベルに不安が過ぎったのか、「ぼく、もしかしてこれからお説教ですか?」と心配そうにジニアが言った。どうやら叱られる心当たりがあるらしい。
「……そうしたいのはやまやまですが、これ以上名前さんをお待たせしてしまうのは忍びないですからね」
「そうですか? それはラッキーだなあ」
 名前さんの男の趣味の悪さにも呆れています。クラベルが素直にそう口にしても、ジニアは怒るどころか「それはぼくも同意見ですねえ」と笑うだけだった。

「彼女の思いに応える気が無いのなら、さっさとそう伝えてあげてはどうですか」
 クラベルがそう言うと、ジニアはきょとんとした。「どういう意味ですか?」
「ポケモンずかんの完成なんて無理難題、吹っ掛けるだけ吹っ掛けて体よく諦めさせようという魂胆なのでしょう?」
「ひどいなあ、ぼく、そんな意地悪い男だと思われてたんですか?」
「違うんですか?」
「違いますよ」
 ジニアの口振りからして、本当に心外だと思っているようだ。
「では、名前さんとお付き合いする気があると?」
「ありますよ。もちろん、名前さんがずかんを完成させてくれたらですけどね」
「……それを無いというのでは?」
 ジニアは困ったような顔をした。「違いますよ」
「名前さんもそう言ってましたけど、いくらぼくでもそんな意地悪なだけの嘘なんてつきませんよ」
「名前さんも言ってたんですか……」
 どうやら彼女の方も、盲目にジニアの言葉の言いなりになっているというわけではなく、振られたのではないかと疑いはしたらしい。
「確かにぼく、誰かとお付き合いしようとか、したいとか、あんまり考えたことなかったんです。ぼくってほら、ちょっとずぼらなところがあるでしょう? 女の人ってこういうの嫌いな人多そうだし、ぼくも相手に合わせるのは苦手なので、自分が将来誰かと一緒になるなんて、想像したこともなかったんです。けど、もしもそういうぼくでもいいって人が現れたとして……」
「で、現れたと」
「もしもぼくが誰かと一緒に居るとしたら、それは名前さんがいいなあって、そう思っちゃうんですよねえ」
 クラベルは眉根を寄せた。決してそうではない筈なのだが、いつの間にか盛大に惚気られた気分だ。
「……ずかんを完成させることとの因果関係は見えませんが」
「あらら」
「やっぱり諦めさせようとはしていたんですね、始めは」
「えへへ」

 今後、万が一名前がジニアを刺したとしても、彼女の味方に付こう。彼女はそれだけのことをさせられているのだ。そんな事を思いながら、「……そもそも可能なんですか、トレーナーでも何でもなかった一般人が、ポケモンずかんの完成なんて」と小さく呟く。
「うーん……」解けない課題を与えているわけではない、そう言っていた割に、ジニアは自信なさげだった。
 自分が作成し、調整し、世に出したアプリといえど、そのずかんを完成させた人間は未だかつて一人も居ない。そもそもパルデア地方にどれだけのポケモンが生息しているのかは誰にも解らず、それこそポケモンずかんを完成させたとするならば、その道の研究者であっても褒め称えるだろう快挙だ。
「けどたぶん名前さんは諦めませんし、いつかは完成させてくれるんじゃないかなって思いますね。それに」
「それに?」
 ジニアは、確かに笑っていた。
「ポケモンずかんを完成させようとしてくれてる間は、名前さんはずっとぼくのこと考えてくれてるんだなって思うと、ちょっとだけ嬉しかったりするんですよねえ」

 趣味が悪いと呟けば、ジニアは「ぼくがですか? それとも名前さん?」と興味深そうに尋ねた。時折、ジニアはこうしてからかうようにクラベルに尋ねることがある。そしてそれはクラベルがどう答えるか、解っている時に限られるのだ。
 クラベルの答えを聞き、満足そうに校長室を出て行ったジニアに、クラベルは再び溜息をもらした。

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