頼むから死んでくれ

 悪いがドブ、車出してくれないか――ボスからそんな風に声を掛けられ、ドブは当然二つ返事で彼の指定した料亭へ足を運んだ。何なら喜び勇んで駆け付けた。しかしながら、三十分後にドブの元へやってきたのは、ボスではなかった。
 ウチまで頼むよ、と名前はややぶっきらぼうに言った。名前は朗らかな――ドブ達に対しては尚の事だ――男なので、普段であればこういう言い方はしない。酔っている。もっとも前後不覚になるほどではないし、言葉尻だってはっきりしている。そもそも、名前はドブよりもずっと酒に強いのだ。酔ってはいる、という程度なのだろう。
 お前かよ、という言葉をぐっと呑み込み、ドブは「はい」と返事をした。いつから俺はタクシードライバーになったんだ、と少し考えたところで、直近で乗ったタクシーは自動で開閉するようになっていたことを思い出した。となると、今のドブはタクシードライバーですらないかもしれない。名前が乗り込んだのを見計らい、慎重にドアを閉める。それから、ドブは盛大に溜息を吐き出した。

 暫く走ってから、ドブは「ボスはご一緒じゃなかったんですか」と尋ねた。刺々しい調子にならないように気を遣ったつもりだったが、名前には正しく伝わってしまったのだろう、彼は「俺で悪かったな」と謝罪の言葉を口にした。もっとも言葉通り謝っているわけではないし、ドブもそれは解っている。
 一緒ではあったんだけど、と名前は曖昧な言い方をした。
「サウナへ行くんだと」
「ああ……お好きですもんね」
「そうそう。よく行くよな。“整う”とかやってんのかね」
 今度ははっきりと揶揄するような響きがあったが、ドブは敢えて気が付かなかったふりをした。吸って良いかと聞かれたので、返事の代わりにエアコンのボタンを押す。冷え切った外気がドブの脚を撫でた。

 東京都で例の条例が締結されたのは、今から十年ほど前の話だ。黒田組は元々ボスが作った若い組織だったので、そういったものとは初めから無縁だったのだが、その条例のおかげでドブは彼から盃を貰ったことがない。まあその方が身軽で良いよな、と、ボスは笑っていた。
 ――あの晩のことを、ドブは今でもずっと覚えている。


 電子タバコを一、二度吸ってから、「そういえば」と名前が言った。
「ドブ、お前、キャバクラで騒ぎ起こしたんだって?」
「ご存知だったんですか。俺じゃあないですよ、言っておきますけど」
「だろうな」
 何を言い出すのかと思えば、ドブが今一番触れて欲しくないことだった。先日ボスにも動画を見たぞと言われたので、この男の耳にも入っていたのも当然と言えるだろう。ひょっとすると、ボスに一連の動画を知らせたのも名前かもしれなかった。ドブには判断が付かないが。
 どうやら名前はドブに対して悪意を持って話を切り出したのではなく、本当に思い付きで喋っているだけのようだった。ルームミラーで見る限り、少しも此方を見ていない。ドブが焦ろうが、平気なふりをしていようが、名前は少しも興味がないのだ。
 名前は手持ち無沙汰な様子で、電子タバコを握っている。紙巻タバコを愛飲しているドブからしてみれば、どうしてあんな吸い応えのないものを好んで吸っているのか解らない。名前が再び口を開いた。
「随分と人気者みたいだったな。再生数も伸びてるし。関連動画もいくつか上がってるよな」
「そうなんですよ、参っちゃいますね」
「ま、うちに迷惑掛けないようにしろよ」
「ははは、そんな事しませんよ」
「そうだと良いけどな」
 ドブは再び「ははは」と空笑いをした。
 昔から、ドブは名前という男の事が嫌いだった。理由はいくつもあるが、こうして組織の事を持ち出してくるところも嫌いだ。名前は組に対して何とも思っていない。それどころか内心では潰れても良いとすら思っている癖に、平然と「組織の為」等と口にする。ドブ達は此処でしか生きられないのに、平然と。
 あれお前のだろと名前が言ったのは、ちょうど目白通りに入った時だった。

 ドブが返事をする前に、名前はふんと鼻を鳴らした。「でなきゃお前、あんなの気にしないだろ」
「誰だって叩けば埃くらい出るさ。ほっときゃ飽きる。なのにお前が後から上がった分まで把握してるってことは、あの樺沢の言ってることもあながち間違っちゃいないってことだ」
「……はは」
 「ボスが言ってたんですか」と尋ねれば、名前は「いいや?」とはぐらかした。拳銃を、しかもボスから貰ったものを紛失し、挙句盗られたとすれば笑い話では済ませられない筈なのに、名前はそれ以上追及しなかった。――この男を嫌いな理由が、また一つ増えた。
 ドブへ釘を刺すのは充分だと考えたのか、ドブが触れて欲しくないだろうと察したのか、それともそれきり興味を失くしたのか、名前は話題を変えた。名前が口にしたのは例の練馬の女子高生の件で、ドブとしてはそちらも話したくはなかったのだが、どうやらドブへ確認するようボスに言われたらしい。
 話しぶりからして、名前はこの件に関してあまり詳しくは知らないようだった。名前が知らないとなれば、三矢ユキの行方を捜すようにボスから頼まれているのはドブだけという事になると言っても間違いないだろう。馬鹿げた優越感が湧き上がるが、同時に名前は少しも気にしないだろうことも手に取るように解るので、何とも言えない。
 同じ事を考えたのだろうか、名前は「信頼されてるなあ、ドブ」と言った。その声音は称賛しているようにも、ともすれば馬鹿にしているようにも聞こえる。「何なら俺も殺してみるか。そうすりゃ親父も、お前だけの親父になってくれるかもしれないもんな」

 どうとでも言い返せる筈だったが、ドブは何を言うこともできなかった。喉の奥が干上がり、貼り付いて離れない。上手く言葉が発せず、やっとの事で「はは……」と声にならない声を出すことができた。その音ですら、自分ではない他の誰かがどこか遠くから発しているような、そんな心地さえする。


 なあ恭平、と、ボスはその時そう言った。
 あんたの盃が欲しい。ドブが言った時、ボスは確かにほんの少しだけ困った顔をしていた。条例だなんだと理由を付けたところで、結局は保身の為なのだ。ドブだってそれは解っていた。組織立っていれば、それだけ検挙される確率を高めることになる。しかし、それならそれで構わなかった。
「恭平、俺はな、お前のことを息子みたいに思ってる」
 ――宥め賺す為の方便として言われたそれを、ドブは後生大事に胸の内に仕舞っている。ボスがそう言ってくれただけで、ドブの心は満ち足りていたのだ。

 名前という男がボスのことを親父と呼べるのは、彼が若頭だからではなく、彼がボスの実の息子だからだ。ドブ達にとってはボスはボスであり、それ以外の何者でもない。――ボスのことを親父と呼ぶことができるのは、この世界で唯一名前だけなのだ。だからこそ名前という男の何もかもが、ドブを腹立たしくさせる。
 名前が今ドブの運転する車の後部座席でふんぞり返っていられるのも、いけ好かない電子タバコを吸っていられるのも、何もかもがドブがまだ彼を殺していないおかげだった。例のルールさえなければ、もしかするとドブは本当に名前を殺していたかもしれない。きっとそうだ。その筈なのだ。
「ああ、拳銃盗られてるから無理か」名前が笑った。
 頼むから死んでくれ。そんな事を思いながら、ドブはハンドルをきつく握り締め、再び愛想笑いを浮かべた。

[ 202/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -