目下の困りごと

 目下の困りごとといえば、専らジェイス・パーチラクトに関してだった。もっともジェイスに横暴な振る舞いをされているだとか、きつく当たられており心を病みそうだとかではなく、むしろ逆なのだが。


 竜騎兵はその職務上、防寒対策が欠かせない。上空を猛スピードで飛び回るドラゴンに跨る為、体感温度が零度を下回ることは珍しくないのだ。その為、防寒を怠れば竜騎兵としての役割を遂行するどころか、異形に遭うよりも前に冷たい土の下に埋められることになりかねない。肌着を分厚いものにするのはもちろんだったが、最も重要なのは手の先、足の先の冷えへの対策だ。名前だって、指は失いたくない。
 指に保温の為の軟膏を塗りながら、名前は小さく溜息をついた。
 竜騎兵は一見すると高給取りなのだが、その大半はドラゴンの飼料や防具などの備品に消えていく。更に言えば刑罰勇者部隊に追従する名前達に多くの経費が割かれる筈もなく、結果的に、名前達竜騎兵は出来る限り切り詰めて生活しなければならなかった。防寒の為の塗り薬は単価も高く、凍傷にならない最低限の量を使うしかないのだが、こうすると手指がちぎれはしないというだけで、痛みは防ぎ切れない。今回は哨戒の為に飛ぶだけなので、比較的ましな部類なのが救いだった。
「名前さん、それじゃ少ないぜ」
 ヒッ、と喉の奥から悲鳴が漏れたが、背後から現れたジェイスには聞こえなかったようだった――もしくは、敢えて聞こえていないふりをしたのかもしれなかった。

 ジェイスは古傷だらけの名前の手を見ていた。「それじゃあ凍えちまう。その薬、もう少し塗った方が良い。指が取れた後じゃ遅いからな」
 そう言ってから、「俺達とは違うんだし」とジェイスは思い出したように付け足した。勇者刑に処されている人間は、死んでもやがては元通りにされ、刑を続行される。おそらくジェイスは、自分の指ならば万が一壊死しても直るから平気だと言いたいのだろう。言わんとしている事は解るが、そんな気味の悪い情報をわざわざ思い出させないで欲しい。
 名前はどうやら厚意で言ってくれているらしいジェイスを見返しながら、どう返事をしようか言葉に詰まった。
 ジェイス・パーチラクトの顔は、竜房では一番拝みたくない顔だ(もちろん竜房以外でも拝みたくないが、竜房の外だとライノーやツァーヴ、ザイロ・フォルバーツなんかの方がより会いたくない為、相対的に一番ではなくなるのだ)。彼は成人男性にしては小柄なので、否が応でも目線が近くなってしまう。ジェイスの青い目から逃れるようにして、「だ、大丈夫です」と名前はもごもご言った。
 どもってしまったのは仕方の無いことだろう。ドラゴン第一主義のジェイスは、人間に対して殊更ひどい時があるのだ。ドラゴンの扱いが少しでも悪いと、竜騎兵だろうとなんだろうと怒鳴り散らすし、名前だって彼には何度も怒られたことがある。暴力に訴え掛けてこないだけましと言えばましだが、それに関しては比較対象が悪いと言わざるを得ない。少しでも彼の機嫌を損ねないようにと努めると、どうしても緊張して喉から何から強張ってしまうのだ。
 しかしながら、名前の返事を聞いても、ジェイスは「そうか?」と朗らかに言うだけで、特に気にしてはいないようだった。怒号を浴びせられるのも嫌だが、今のようににこやかに対応されるのも正直気持ちが悪い。
 名前は竜騎兵の中で、唯一ジェイスに怒鳴られない人間だった。

 少し前までは、名前も他の竜騎兵達と同じように、毎日のようにジェイスに罵倒されていた。やれ竜房の掃除がなってないだの、鐙革の調整が雑すぎるだの、そんな粗末なものをドラゴン達に食べさせるつもりか黴でも食ってろだの、顔が悪いだの、そんな感じだ。どれもが的確な指摘であり、ジェイスが並外れた技量を持った竜騎兵であるからこそ皆甘んじて受け止められはするが、そうでなければ到底耐えられない。実際、ジェイスに怒鳴られ続けたせいで心を病む竜騎兵は少なくない。
 名前に対するジェイスの態度が軟化したのは、今から二ヶ月ほど前のことだった。明確な態度の差に、名前は自分が何か重大なことをやらかしてしまって、もしやこれから始末されるのだろうかと恐々としたものだ。そうなった切欠は、名前が任務で死に掛けたことにある。
 異形の攻撃を受けドラゴンから放り出されて落下した名前を、確認に来たのがジェイスだった。名前はこのまま自分が死ぬのだろうと思ったし、ジェイスも似たような事を考えたのだと思う。その時に名前は言ったのだ、「シェルティは無事ですか」と。
 シェルティというのは名前が乗っているドラゴンの名だ。ちなみに、彼女もその時に多少の怪我を負ったが、(ジェイスの献身的な介護もあり)今も名前を乗せて空を飛んでいる。
 ――自分の身も省みず、開口一番相棒のドラゴンを心配した名前に、ジェイスはひどく胸を打たれた。そういう事らしかった。
 しかし実際のところはこうだ。名前達竜騎兵にはドラゴンを監督する義務があり、混乱に乗じて逃げ出されてしまった場合などは多額の罰金が科せられる。また、ドラゴンは名前の私物ではなく王国の財産を借り受けている形となる為、もしも死なせてしまっていた場合には、生涯どころか末代まで賠償金を支払わせられることになる。
 名前が真っ先にドラゴンのことを口にしたのも、自分の身可愛さ故にだった。つまり、ジェイスは盛大な勘違いをしている。しかも現在進行形で。
 最初は何故ジェイスの態度が変わったのか名前にはさっぱり解らなかったのだが、その考えに至った時はゾッとした。ジェイスは名前がドラゴン思いの良い奴だと信じ込んでいるし、訂正を入れるには機を逃しすぎた。今の名前はジェイスがいつ真実に気付くかと、日々怯えて生活している。


 再びジェイスに声を掛けられ、名前はハッとなった。「やっぱりそれじゃあ少ないと思うよ」
 ドラゴンにしか興味がないジェイスは、当然もう居なくなったものと思っていた。どうやら名前がまごついている間、ずっと此処に居たらしい。
 名前が何を言う間もなく、彼は自分の防寒用の塗り薬を取り出した。手袋を脱ぎ、慣れた手付きで蓋を外し、軟膏をたっぷりと――名前だったら到底そんな風には使えないし、どうやら名前が使っているものよりも少々値が張るものだ――掬い取ったジェイスは、「ほら」と名前に手を差し出した。軟膏がたっぷりとついたその右手を、名前に。
「……えぁ……?」
「手を出して――仕方ないな、名前さんは」
「まっ……そな、だっ」
 待って、そんな事しなくていい、大丈夫だから。名前の言葉はどれもこれもまともな音にならなかった。
 聞き分けの無い子供を見るかのような目で名前を見ていたジェイスは、それから名前が止める間もなく名前の手を取った。
 喉の奥からか細い悲鳴が零れ出たが、少しも気にしていないようだった。そして固まった名前の手を掴んだまま、ジェイスは丁寧に丁寧に薬を塗り込んでいく。親指、人差し指、中指、薬指、小指と一本ずつ丹念に塗布し、掌や手の甲にもしっかりと塗り込んだ。どうやら保温や保湿の効能だけでなく、薬自体にも加温作用があるのか、段々と両手全体が温かくなってくる。もっともそれは、ジェイスが丁寧に名前の手を擦り続けているからかもしれないが。

 ジェイスが「ほらできた」と名前の手を開放した時には、確かに名前の手はぽかぽかと暖かな熱を持っていた。この調子なら、真冬の雪山でも凍えずに飛ぶことができるだろう。どうにかして「どうもありがとう……」と捻り出せば、ジェイスは柔らかくはにかんだ。
 名前さんの役に立てて嬉しい――彼がそんな表情をして笑ってみせる度、名前の心はますます冷たくなっていく。
 名前が哨戒の任務に出ると知ったジェイスは自分も行くと言って聞かなかったが、名前は全力で固辞したし、彼の相棒のドラゴンがひどく機嫌が悪いということでその話は無しになった。名前はホッとしたし、同時に次にあの青い竜に会う時果たして自分は無事に生きて戻れるだろうかと心配になった。

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