舌の上では蜂蜜

 この日の晩も、片角のサルカズは現れた。「こんばんは、魚団子のスープ一つお願いね」
 へい、と返事をした後に横目で盗み見れば、何が嬉しいのかにこにこと笑っている。いつもの事だ。長雨せいだろう客足は遠のく一方だったが、彼女にはあまり関係ないらしい。

 名前というサルカズは、時折こうして夜も更けた頃、決まってジェイが手伝いに入っている時に現れる。どうやら店主の知人らしいのだが、あまり詳しいことは聞いていない。物静かな人だが、ある程度のお喋りには付き合ってくれる。今晩のように、他に客が居ない時は特に。「名前さん、ハタを炙ったのがお好きだったでしょう」
 そう声を掛ければ、蜂蜜色の瞳がちらりとジェイを映した。
「今晩あたりいらっしゃるんじゃないかと思って、仕入れておいたんでさ」
 にこ、と名前が微笑を浮かべる。「ジェイくん、そういうとこ、ほんと良くないと思うな」
「そういうとこ……というと?」
「真に受けちゃう人も出てきちゃうよって事。そんなに細かいことまで覚えてくれてるなんて、私のことが好きなのかなって勘違いしちゃう」
 ――勘違いして下さいよ、と、そう言えればどれだけ良いか。
 ジェイは元来口が達者な男ではなかったし、名前を前にすると余計に上手く話せなくなってしまう。結局、ジェイが返事をする前に、名前の方が「じゃあそれも貰おうかな」と言ったことでこの話はおしまいになった。ジェイは「へい」といつものように返事をし、そして雨音が響き出す。


 名前の好きなところは沢山ある。こうして雨の降る日も店に来てくれるところ、目が合ったら微笑んでくれるところ、出したものを残さずに食べてくれるところ。彼女の高すぎない柔らかな声も好きだし、いつも姿勢良く座っているところも好きだ。あまり育ちがいいわけではないのだと恥ずかしそうにしていたが、それでも箸遣いが丁寧で、美味しそうに食べてくれるところが好きだ。
 彼女の蜂蜜色の目に見られると、ジェイは不思議とドギマギして、居てもたっても居られなくなってしまう。ウルサス人は大抵蜂蜜が好きだし、自分が彼女の前でこうなってしまうのもきっと仕方のないことなのだ、などとわけのわからない言い訳を重ねている。

 魚団子のスープと、それから炙り焼きを手渡すと、彼女は「ありがとう」と言ってから静かに食べ始めた。特段大きくもない魚団子も、箸で丁寧に切り分けてから口に運んでいる。名前に渡した皿からその殆どが消えた頃、ジェイは漸く重い口を開いた。
「名前さん、俺、今度ロドスって所に行くことになったんです」
 これだけではあんまりだったろうかと、「ホシグマさんの勧めで」と付け足した。
 名前が顔を上げた。蜂蜜色の瞳がジェイを射抜く。
 何と切り出せば良いか解らずこんな時間になってしまったし、結局内容をそのまま言ってしまったせいで、いきなり自分のことを話し出す痛い奴になってしまった。しかしながら、名前は嫌な顔一つしない。ただ一言、「そうなんだ」と言っただけだった。
「龍門には暫く戻ってこれねえんで、屋台も一旦畳みやすし、こっちにも顔出せねえんで」
「あの……ジェイくんはさ、私がマフィアの殺し屋だってこと知ってるよね?」
「へ? それは知ってやすが……」
「そう……」
 知ってるんならいいんだけど、と名前は小さく言った。
 名前がシラクーザ系のマフィアの一人らしい、という事は知っていた。某ファミリーにサルカズの殺し屋が居るというのは、この辺りでも有名な噂だった。彼女から直接聞いたわけではなかったが、リーからそれとなく忠告されていたし、龍門でサルカズは珍しい。
 名前は、珍しく困ったような顔をしていた。
「どうしてそんなこと喋っちゃうのかなと思って。でも、まあ……知ってて言ってるんなら良かったよ。私以外にそういう個人的なこと話す時は気をつけてね、利用してやろうって悪い人はいっぱい居るんだから。ロドスだっけ、そこでも頑張ってね」
 にこ、と普段通りに笑ってみせた名前に、ジェイは何と言っていいか解らなくなってしまった。「ジェイくん?」と促され、慌てて言葉をかき集める。
「すいやせん、俺ぁてっきり……」
「てっきり?」
 不思議そうに自分を見上げる名前に、ジェイは自分の顔がじわじわと熱を孕み出したことを認めないわけにはいかなかった。「俺ぁてっきり、名前さんが俺に会いに来てくれてるんじゃねえかなって、ちょっとだけそう思っちまってやした」

 恥ずかしいんで忘れて下さい、そうジェイが言ってから、名前は暫く何も言わなかった。考えてみれば名前がジェイ目当てで店に通っているのなら屋台の方にだって顔を出す筈だし、ジェイが店に居ない時も普通に来ているのかもしれなかった。勘違いをしていたのは、名前ではなくジェイだったのだ。
 ジェイはこの時ほど、自分の記憶力の良さを恨めしく思ったことはなかった。暫くはこの事を引き摺ることになるだろう。龍門を離れることになって逆に良かったかもしれない。次に名前に会う時、どんな顔をすれば良いか解らないからだ。
「ジェイくんって、時々すっごく可愛いこと言うよね……」
 ぽつりと呟かれたそれを聞き返す前に、名前は立ち上がって「ご馳走様」と微笑んだ。それから数週間後、ジェイは名前に言った通り店仕舞いをし、ロドス製薬で働き始めた。そしてその数ヵ月後、ロドスに名前までもが雇われることになった。もっとも彼女は警官の推薦ではなく、自力で面接を受けて此処まで来たらしい。ジェイがオペレーターとなった名前に話し掛けると、彼女は以前と同じく微笑んでみせ、「悪い人はいっぱい居るって言ったでしょ」といたずらに笑った。

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