11月26日、夜

 名前が医学の道に進んだのには、いくつか理由がある。医者になりたいと言った時に母がたいそう喜んでくれたこと、元々学校の成績が良く且つ勉強も嫌いではなかったこと、人の役に立つことは素晴らしいのではないかと思ったこと、そして単純に儲かりそうだと考えたこと、等々だ。しかし最終的に内科医を選んだのは、いつまで経っても血を見慣れなかったからだった。「う、う、撃たれた!?」


 少し手を借りたいので、指定の場所まで来て欲しい。ドブからのそんなメッセージを確認したのは、勤めている個人医院を閉め、帰路についていた時だった。数時間前に届いていたらしいそれに、名前は真っ青になって返信をした。何せ相手はあのドブだ。例えメールの返事が遅くなっただけだったとしても、何をされるか解ったもんじゃない。
 返事が送れて申し訳なかった、今の今まで業務に掛かりきりだったのでスマホを確認できていなかった、本当に申し訳ない、今からでもよければすぐに向かう、本当に申し訳なかったと思っている。
 しかしながら、すぐに返ってきたドブからの返事には、別段怒っている様子は見られなかった。それが余計に名前の恐怖を煽ったのだが、兎にも角にも名前は急いで指定場所へ向かうことにした。

 辿り着いたのは数十階建てのマンションで、名前は今日が私の命日になるのかもしれないな――と、どこか他人事のように考えた。ドブに呼び出されたのなんて初めてだし、マンションなんて殺人現場によくある場所ではなかろうか。もっともドブに呼び出されれば、その場所がどこだろうと怖く感じるかもしれない。多分、動物園とかでも怖いんじゃないだろうか。動物園に用があるドブもだいぶ怖いけれど。
 マンションに着いてから再び連絡すれば、新たに見知らぬ部屋番号を指示される。中には入れるようにしておくと。確かに玄関の扉は開いていた。ドアを閉めれば勝手に施錠され、名前は改めて死を覚悟した。
 名前の来訪を感じ取ったのだろう、部屋の奥からは「入ってこいよ」とドブの声がして、名前は仕方なく歩き始める。部屋に染み付いている煙草の匂いからして、此処は彼の家なのだろう。本当に帰りたい。

 こんばんは、と小さく声を発しながら、ドブの姿を探す。おう、と返事をしたのは当然ドブで、彼は部屋の中央のソファーで一人横になっていた。横柄な上に横着な男だなと思ったのだが、どうやら彼としても寝そべったまま来客を迎えるのは不本意らしかった。剥き出しになっている彼の左太股には、真っ白い包帯が巻かれている。
 仕事終わりに呼び出して悪かった、そう労いの言葉を寄越した後、ドブは「暫く手貸してくんない?」と言った。
「見ての通り、ちょっとやらかしちまってな。暫く安静にしてなきゃなんないんだ」
「……つまり、私に看病しろってことですか?」
「そうそう。さすがお医者様、察しがいいね」
 にこ、と愛想笑いを浮かべてみせるドブに、何と言っていいのか言葉に詰まる。医者だからと言って看護に慣れているわけではないし、そもそも精神内科が専門なので、外傷のことはてんで解らない。応急手当を頼みたいのなら兎も角、既に医師による治療もされているようだし、わざわざ名前を頼らずとも、お仲間に任せればそれで済む筈だ。
 名前がそれらの疑問を呑み込んだのは、偏にドブにいちゃもんを付けさせたくなかったからだ。彼は口が上手いし、例え名前が拒絶しても、あれやこれやと丸め込まれるのは目に見えている。それなら、始めから素直に従っていた方がマシだ。

 ドブ。そう呼ばれている男のことを知ったのは、今から数年前の話だ。当時の名前は親の病院を引き継いだばかりで、死ぬほど忙しい毎日を送っていた。当然同僚達のことなど気に掛けることが出来なかったし、同僚の看護師が新しく付き合い始めた恋人に悪い噂があると聞いても何も感じなかった。普段であれば多少嗜めたり、考え直すよう促したりしたかもしれないが、その時の名前にはその余裕がなかったのだ。気が付いた時にはその看護師は病院の資金に手を付けていて、当然院長の名前が対応せざるを得なかった。彼女が言うには、全て恋人の為にしたことなのだという。そして、その恋人の男が反社会的組織に属している人間だと知ったのは、それからずっと後の話だ。
 恋人の男、ドブとのやりとりを続けていく内に、名前の病院が労基に睨まれていることや、過去に医療ミスを起こしておりそれを隠蔽したこと、改装の際に多額の借金をしたことなどを握られ、いつしか名前の方がドブに頭を下げる立場になっていた。事の発端となった看護師は、気付けば姿をくらましていた。結果的に、名前にはドブとの関係性だけが残されたのだ。
 彼が名前のところの看護師に近付いたのも、名前の病院を良いように使いたかったからなのではないだろうか――そう思ったこともあるが、今は考えないようにしている。

 名前は結局、「なんで怪我したんですか?」とだけ尋ねた。気になっても不自然ではないし、どうせドブは答えないだろうし。そして冒頭に戻る。


「……んなビビんなよ」
 二の句が継げなくなってしまった名前を見て、ドブは猫撫で声を出した。
「別に治療してくれってわけじゃないんだ。誰だって苦手なことくらいあるさ。先生は掃除とか洗濯とか、そういう簡単なことをしてくれればいいんだよ」
「……はい」
 ドブは簡単なことをしてくれればいいと言ったが、名前は掃除や洗濯以外にも様々なことをさせられた。日々の食事の買出し、傷の手当、日用品の買出し、掃除、洗濯、エトセトラ。毎日仕事終わりにドブの家へ顔を出す生活はかなり疲れたが、一週間もすれば慣れてしまった。人間の適応能力は凄まじいものがある。

 名前が雑用をこなしている間、ドブはずっと横になっていた。今も、ソファに寝そべったままスマホを触っている。
 彼が移動する時は肩を貸すのだが、その時の体重の掛け方からして本当に動けないようだった。名前は当然撃たれた経験は無かったし、それ以前に骨折すらしたことがないので、彼の怪我の程度は想像するしかないが、さっさと治って欲しいと思う。どんな経緯にせよ怪我をしたこと自体は気の毒だし、何より早くこの神経をすり減らす生活から解放されたい。
 ドブに気付かれないよう小さく溜息をつき、吸殻の山を片付けようと手を伸ばした時だった。腕を掴まれ、そのまま床に引き倒される。二、三発殴られた時には、既に名前は泣き出してしまっていた。どちらかの体がぶつかったのだろう、灰皿が転がったのが解る。「妙な目で見やがって」
「怪我してようとお前一人捻り倒すのなんて簡単なんだよ。言ってみろ何考えてた? 怪我してる俺ならやれるとでも思ったか?」
「ちが、違います、違います……」
「なら何だ」
 ドブは名前に圧し掛かったまま、泣きじゃくっている名前の言葉を待った。
「け、怪我してるドブさんは、か、かわいいなと思って……」
「…………はー」
 盛大に溜息を吐き出したドブは、ゆっくりと名前の上から退いた。それから足を引き摺りながら再びソファーに腰をかけ、また元のように横たわる。手負いの獣が放つような殺気は、いつの間にか消えていた。いきなり殴りかかったことについてドブは謝罪をせず、ただ一言「それ、片しといてくれよ」と言うだけだった。当然名前は「はい……」と返事をする。すすり泣きながら吸殻を片付ける名前を、ドブが黙って見詰めていたことは誰も知らない。

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