名前がバイトを辞める。大学生の名前が就職を機にバイトを辞めてしまうことは、ずっと前から――むしろ雇った時から解っていたことだった。三月まではまだ半年以上あり、下半身透明は何度も名前を説得したが、彼女は応じなかった。そりゃそうだ。収入の安定しない、しかも低賃金のアルバイトと、一般企業の正社員とでは何もかもが違う。
 刻一刻と、春が近付いてきていた。
「院長室ですか?」
「うん」
 バイトが終わったら院長室に来て欲しい。そう言った下半身透明に、名前は一瞬不思議そうな顔をしたものの、素直に頷いた。


 ホラー・ホスピタルの営業が終了し、暫くしてから名前は現れた。元々院長室だったそこは小さな部屋で、今では古ぼけたデスクや、空っぽの棚がいくつか残されているだけだ。お化け屋敷にも使っておらず、ただ存在するだけの部屋となっている。
 窓から差し込む月明かり以外は仄暗い部屋の中、名前は懐中電灯片手に照明のスイッチを探そうとしていたようだった。しかしそれより先に、下半身が部屋の鍵を締めた音が聞こえたのだろう、「透明さん……?」と怪訝そうな声を出した。
 白熱灯に照らされた下半身透明が「来てくれてありがとう」と微笑むと、名前は微かに当惑したような顔付きになった。

 電気はつけないんですかと名前が尋ねたが、下半身透明は答えなかった。
「何度も聞いちゃってごめんね、だけど最後に一回だけ聞かせてくれる? 名前さ、本当にバイト辞めちゃうの?」
「はい」名前が言った。「透さん、電気つけても良いですか?」
「俺さ、嫌だなって思ってるんだよね。正直」
「透さん」
 懐中電灯の光がフッと掻き消えた。暗闇の中、埃の積もった絨毯の上に力任せに押し倒しても、名前は平然としていた。――いや、ほんの少しだけ動揺しているようだった。
「名前を吸血鬼にしちゃえば、辞められなくて済むかと思ってさ」


 名前は下半身透明を見詰めるだけだった。もっともこの暗い部屋の中、彼女に見えているのは下半身が纏う白装束だけかもしれない。首元に顔を寄せれば名前は身じろいだが、それ以上の抵抗はしなかった。
「吸血鬼と人間じゃ、雇用条件が違うでしょ」
 顔布越しに名前を見れば、彼女も此方をじっと見返していた。白い布切れ一枚が、二人を阻んでいる。「名前が吸血鬼になっちゃったら、多分内定も取り消しだよねえ」
「言っとくけど、俺はそこそこ古い血を継いでるし、君を吸血鬼化させることに何の問題もないんだよ。君のこれからを、全部俺が握ってんの。その事解ってる?」
 ――何世紀か前は、人間からの弾圧に対抗すべく、吸血鬼が血族を増やそうと、やたらと人間を襲う時代もあったそうだ。もっとも吸血鬼化には個人差があり、グールになってしまうことも多かったようだが。現代では吸血鬼と人間の対立は緩和し、法も整備された。
 同意無しの吸血鬼化は、刑罰の対象だ。
 名前が大人しいのは、それを解っているからなのだろうか。下半身は脅しを掛けているだけで、罪を被ってまで名前を吸血鬼にする勇気は無いだろうと。
 被っている顔布を脱ぎ捨て、名前を見下ろす。彼女の目が、己の牙に釘付けになっているのが解る――畏怖、しているのだ。

 盛大に溜息を吐き、下半身は名前の上から退いた。「吸血鬼にするんじゃなかったんですか」と名前は言ったが、その体が安堵に包まれているのは見て取れる。
「あのね、今自分が襲われてたの、ちゃんと解ってる?」
「それは、解ってますけど……」名前が言った。「透さんと一緒なら、それも楽しそうだな……って、ちょっとだけ思っちゃって」
「は……」
 立たせてもらっていいですかと言う名前の言葉に、下半身透明は彼女の手を掴み、立ち上がらせてやる。転がっていた懐中電灯も拾ってやれば、眩しすぎる光に顔を照らされ、思わず目を眇めた。甘んじて照らされているが、懐中電灯を人に向けてはいけないとは習わなかったんだろうか。名前は「透さんの素顔ってレアじゃないですか?」と、どこか笑っているようだった。もっとも彼女の顔は、よく見えなかったけれど。


 結局、下半身透明は名前を吸血鬼にしなかった。やる気が削がれた事、名前を吸血鬼にしたところで根本的な解決にはならない事など、理由は様々だ。それに――彼女が畏怖した吸血鬼は自分なのだと、そう思えば多少気は楽になった。
 名前は下半身を訴えなかった。吸血未遂なり、暴行未遂なりで訴えれば下半身に勝ち目はなかったが、それでも彼女は何もしなかったのだ。兄達に通報されないようにしろと普段から言っている手前、有り難いと言えば有り難いのだが。名前が何を考えているのかさっぱり解らない。彼女はその後も普通にバイトを続け、そして宣言通り三月半ばで辞めていった。
 深夜営業のファミレスで名前と二人、肩を並べる。最初の内は、素顔を見慣れていないことや、物を食べる吸血鬼が珍しかったのだろう、彼女はまじまじと下半身の食事風景を眺めていたが、この頃ではすっかり慣れていた。
 名前は東京の出版社に勤め始めたが、相変わらず新横浜で暮らしていたし、仕事の関係で新横浜に来ることも多々あるらしい。そして仕事上深夜帯に活動することも多いらしく、こうして一緒に食事をするのも一度や二度ではなかった。名前が誘うこともあるし、下半身が誘うこともある。
「あ、今度此処行きましょうよ、夕方四時半までですけど、今の季節ならギリ行けそうじゃないですか?」
「……いいよ、別にもっと早い時間で。俺に合わせてくれなくても」
「え? でも……」
「だから……名前となら、陽に焼かれるくらい別に良いって言ってんの」
 名前は暫くの間下半身透明を眺めていたが、やがて「自殺願望……?」と小さく呟いた。余った袖で思わずはたいてしまったが、流石に許される筈だ。

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