先輩のへんたい!

 名前はこの日、かなり覚悟を決めて此処に来たつもりだった。タビコは名前の先輩にあたるが、今までに一度として名前のお願いを聞いてくれたことがない。彼女は何でも一人でやるし、一人で決める。けれど、彼女は名前の憧れだった。吸血鬼退治の実力、的確な判断力、そしてその凄まじいまでの技のキレ。何をとっても、彼女は名前にとって憧れの存在だったのだ。
 何でも一人で決めてしまうタビコは、いつの間にか新横浜退治人ギルドを抜けていた。ギルドを抜けるということは、つまり退治人を引退するつもりなのだ。
 バックレは厳禁だが、退治人を辞めることを止める者は誰も居ない。きつい仕事だし、リスクに見合った報酬を得られることは殆ど無い。心を病む者も大勢居るというし、だからこそ引退の意を示した人間を引き留めることは無いのだ。名前がタビコがギルドを抜けたのを聞いたのも、タビコにではなく、ゴウセツに尋ねてやっと知ったのだった。誰も彼女のことを責めないし、止めない。それが当たり前だ。
 名前がこうしてタビコの家を訪ねているのも、本当ならあまり好ましい行為ではなかった。しかしタビコは名前の憧れの先輩で、大好きな人だ。退治人をやめないで欲しい、そう伝えることくらい許されるのではないか。例え彼女が頷いてくれないとしても。
 覚悟を決め、扉を叩いたつもりだったのだが、現れたのが見知った女退治人ではなく長身の吸血鬼だったことで、名前の決意は脆く崩れ落ちてしまった。

 名前が口を利けるようになるまで、一瞬の間が必要だった。
「お、大鴉……!?」
「退治人か?」
 名前の姿を見止めると、日食の大鴉――ヴェントルー・ブルーブラッドは僅かに目を細めたようだった。その目には人間への侮蔑が滲んでいるように感じられる。
 危険度Aランクの吸血鬼の姿を前に、名前は一瞬呆けたものの、すぐに我に返った。
 タビコの家に、何故吸血鬼が居るのか。
 答えは一つ、タビコが襲撃されたのだ。そして出迎えたのがタビコでなくこの吸血鬼であるならば、彼女は既にやられてしまったのかもしれない。今日は非番のつもりだったので、簡単な武器しか携帯していないが、怯んではいられない。手遅れになる前に、一刻も早く助け出さなければ。
 もっとも、タビコその人がヴェントルーを押しのけ、「名前?」と声を掛けてきたことで、名前の決意はまたしてもがらがらと崩れ去ってしまったのだが。


 タビコが言うには、先日ヴェントルーを退治した際に奪った靴下を靴下質に取り、無事に返してやることを条件に小間使いとして使っているということだった。彼女が何を言っているのか一部というか殆ど理解し難かったが、とりあえず先輩が勝ったのだ。先輩は凄い。ちなみに日食の大鴉が淹れてくれた紅茶はやけに美味しく、ますます不気味だ。
「えーっと、じゃあ先輩は、イギリスに行っちゃうってことですか?」
「何だ何だ、話を飛躍させすぎだ名前。どうしてそうなる」
「大鴉みたいな強大な高等吸血鬼も退治できちゃうんなら、シンヨコじゃ物足りないんじゃないかと思って……イギリスなら、Aランク以上の吸血鬼も沢山居るし……」
 日本とイギリスとでは吸血鬼に対する警戒度合いが違う為、相対的にランク分けされた吸血鬼の比率も変わってくるのだが、タビコはその事を指摘しなかった。「名前、お前、本当に私のことが好きだなあ……」
 名前はぐっと口を噤んだが、タビコは笑うだけだった。
「日本を出たりしないさ」名前がぱっと顔を上げたものの、すぐにまた視線を降ろしてしまう。「退治人を辞めることは変わらないがな」
 求めていたものが見付かったんだと、タビコは微かに笑った。
「靴下を脱がせることに興奮を覚えることに気付いたんだ」
「何て?」
 名前は聞き返した。「靴下を脱がせることに興奮を覚えることに気付いたんだ」

 ヴェントルーとの戦いで見付けた壁、吸血鬼への畏怖、結婚――名前は此処に来るまで、タビコがギルドを抜けた理由を考えていた。しかし、自分が何か――何か盛大な勘違いをしていたのではないかと、薄々思い始めた。
 聞こえなかったわけじゃないですと名前は言ったが、果たしてその声は震えていなかっただろうか。未知の存在に出会った時の恐怖とかで。
「吸血鬼の連中は自分の衣類に固執するらしくてな、ヴェントルーだけじゃない、他にも何人もの吸血鬼の靴下を奪ったが、靴下を取られると皆弱体化するんだ。しかも長く生きている古い吸血鬼ほどその傾向は顕著でな。そして私は気付いたんだ、ドチャクソ興奮する、と」
「そういう性癖は心の中にしまっておいて下さい!」
 ――誰が何に興奮しようと当人の自由だと思っているが、憧れの先輩がただの変態に成り下がっていた衝撃は計り知れないものがある。退治よりも性癖を優先させたいため、正規の退治人は辞め、個人で活動していくことにしたそうだ。退治人をしているのが嫌になったとか、そういうんじゃなかった。むしろそっちの方がマシだった。
「しかし一つ問題があってな」
「問題しか感じませんでしたけど……」
「私は吸血鬼の靴下を脱がせることに興奮するのか、それとも靴下を脱がせること自体に興奮するのかという事だ」
「違いあります!?」
 思わず突っ込めば、タビコがまっすぐに名前を見据えた。先輩に失礼な態度だっただろうかと思う反面、いやそんなに真面目に捉える必要はないなとも考えてしまう。どちらにせよ嗜好が斜め上であることには変わりない。「ちょうどお前が来たし、お前の靴下を脱がせばはっきりするな」
 名前が反応しようとした時には既に、タビコは動き始めていた。吸血鬼を相手にする時の要領で一瞬で名前を組み敷き、素早く名前の足先に手を掛ける。
「先輩!?」
「うん? お前これタイツか?」
「タ、タイツです……寒かったから……」
 タビコの手が止まったので、名前は心底ホッとした。どうやら本当に靴下を脱がすのが性癖なようだ。タイツで良かった。
 しかしながら名前が安心したのはその一瞬だけで、タビコは「まあ丸ごと下ろせば問題ないな!」とデニムごとずり下ろしてしまった。下着だけは死守したが(むしろ、名前がガードしなければ下着ごと下ろされていた可能性すらある)、恥ずかしいことには変わりない。

 あまりの暴虐っぷりに名前は絶句したが、タビコの方は何でもないような顔をしている。たった今、後輩の下半身を下着姿にしたというのに。名前は下着が見えないよう隠そうと必死だったが、タビコはそんな名前をまじまじと見下ろしているだけだった。
 自分だけが恥ずかしがっていて、自分の方がおかしいのではないかとすら思えてくる。が、全然そんなことは無い筈だ。
「ふーん……」タビコが呟いた。
「な、何ですか」
「タイツを脱がせても特に興奮はしないな」
 名前は思わず手を上げたが、タビコは難なく避けてしまった。私のタイツを懐に仕舞うな。「名前、次来る時は靴下を履いてこいよ」
 もう絶対来ない――名前はそう心に決めたが、次に来た時は靴下どころか全身ひん剥かれることをまだ知らなかった。ちなみに、後日タビコから連絡が来て、どうやら吸血鬼の靴下を脱がすことにではなく、吸血鬼の靴下を強奪することに興奮を覚えるとのことだった。勝手にして欲しい。

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