月の無い夜だった。野球拳大好きは遠目に見えた後ろ姿に、自然と声を掛けていた。「よう、おネェちゃん!」
 振り返ったのはやはり名前で、彼女は「野球拳?」と呟いたようだった。名前は立ち止まり、野球拳が追い付くのを待ってくれた。
「野球拳ならしないですよ」
「俺のこと何だと思ってんの!?」
「無差別野球拳ポンチ」
「ウオーッ弟と同じこと言う!」
 トオルくんが言ってたんだよと笑う名前。
 人違いかもしれないと思ったが、やはり彼女で間違いなかった。口の端から覗いているキバも、見間違えようがない。何となく自信がなかったのは、彼女が普段の吸対課の制服ではなく、見慣れない私服を着ていたからだ。非番らしい。
 制服でなくても解るようになってしまった……と野球拳は内心で頭を抱えつつも、顔には出さかった。

「おネェちゃんこんな夜更けにどこ行ってたの」
「買い物ですよ」名前は手にしていたエコバッグを掲げてみせた。「たまにはちゃんとしたもの食べないと」
「そんでもおネェちゃんみたいな若い娘がこんな時間に出歩くの、おじさんどうかと思うぜ」
「仕事ですっかり昼夜逆転しちゃってるもん。夜更かししてるんじゃなくて、昼間に起きられないんだよ」
 野球拳は何してるのと尋ねられ、まさか辻野球拳に繰り出そうとしていたなどと素直に白状するわけにもいかず、「適当にぶらぶらしてただけだ」と答えた。
「ふーん……」
「なんだよ、今日はまだ何もしてねえぞ」
「“まだ”って、何かする気満々じゃん」
 名前は苦笑を浮かべた。
「けど、もし予定があるんだったら、なるべく早く済ませた方が良いんじゃない? 多分、もうそろそろ雨降ってくるよ」
「は? 天気予報では晴れって――」
 その時、ぽつりと雨粒が落ちてきて、瞬く間にどしゃぶりの雨が降り始めた。確かに降水確率はゼロではなかった。ゼロではなかったが、確かに新横浜には晴れマークが付いていたのに。

 吸血鬼には水が苦手な者も多く、野球拳大好きも苦手と言うほどではないが気分が下がる。それこそ、雨を凌ぐ為になら退治人のギルドに顔を出すほどに。
 野球拳はかなり渋い顔をした。折角気分良く辻野球拳できると思ったのにこれだ。名前は持っていた折り畳み傘を貸してくれたが、晴雨両用らしいそれは野球拳には些か小さく、二人で使うには尚の事小さかった。名前は持っていってくれて良いと言ったが、流石に自分よりも遥かに年下の女の子をこのどしゃぶりの雨の中に放り出し、傘を借り受けるわけにはいかない。ちなみに、野球拳しながら帰ろうぜという提案は却下された。
 明らかにテンションが下がった野球拳を見て、名前は「だったらうちで雨宿りする? すぐ近くだよ」と野球拳を見上げたのだった。


 名前の家は本当にすぐ近くだった。アパートの扉の前で、水滴を滴らせながら立ち往生する野球拳大好きに、名前は「ああ……『どうぞ、お入りください』」と部屋の中を示してみせた。仕方なく、「どうも」と部屋の中に入る。
 先日の一件――弟達の相手をする気力がなく、うっかりそのまま棺桶まで運ばせてしまった一件から、名前は吸血鬼の事情に詳しいわけではないらしいと思っていたのだが、どうも偏った知識は持っているらしかった。おそらく業務上の吸血鬼対策として、知っていることと知らないことがあるのだろう。
 別に、どこぞの年寄りのように、招かれていない場に入るわけにはいかないと思って足を止めていたわけではない。そもそもにして野球拳大好きは家主から招かれているのだし、そこに野球拳があるならばどんなところにだって赴くのが信条だ。ただ、一人暮らしの女の子の家に自分が入るのは、色々とまずいんじゃないかと思っただけだ。

 もっとも名前がこうして気安く野球拳を部屋に入れたのも、男としても吸血鬼としても見ていないというだけなのだろう。
 二人共それぞれ濡れていたし、体格等の違いから野球拳大好きの方がより濡れていた(厚着しているのに一番下まで濡れていて最悪だった)のだが、名前に風邪を引かれるわけにはいかないので、野球拳は無理矢理彼女を浴室に押し込んだ。まだご飯炊く準備もしてないしと渋った名前に、「俺がやっとくから!」と言い放った野球拳だったが、Tシャツにハーフパンツというラフな格好で出てきた名前に様々な感情が押し寄せる。
 俺以外の吸血鬼の前でそんな首筋晒すんじゃねえぞ! と、できることなら怒鳴りたい。
 ギュッと唇を噛み締める野球拳に、名前は「素顔丸出しなの見慣れないなあ」と暢気に笑っていた。

 元々通り雨だったのだろう、雨は既に止んでいたが、服がある程度乾くまでは名前の家に居させてもらうことになった。野球拳は今、自分が作った料理を名前が食べているのを手持ち無沙汰に眺めている。別に野球拳が自分から進んで料理したわけではなく、元々彼女が帰ってから夕食にするつもりだったらしいことと、流石に米を炊いておくだけなのは忍びなかったので、適当に追加しただけだ。ちなみに、半裸で居られるのは落ち着かないというので、彼女の上着を借りている。サイズが違いすぎるので、羽織っているだけになってしまうのだが。
「おいしい!」
「……あっそう、そりゃ良かったな」
「お世辞だと思ってる? 本当に美味しいよ、この炒め物」
「そりゃどうも。ま、俺ら吸血鬼にとっちゃ料理は教養みたいなもんよ。料理出切る方が、色々……」
 野球拳は口を噤んだ。いつもの口布が無いせいなのか、いやに口が回ってしまう。ダンピールを相手に何を言おうとしたのか。しかしながら、折角野球拳が言葉を途中で途切らせても、名前が「吸血とかしやすそうだよね」と笑うので意味がない。何となく気まずくなり、顔を逸らす。
「する?」
「は?」
「吸血」
「は!!?」
 思わず視線を戻せば、箸を止めた名前が野球拳の方をじいと見詰めていた。風呂上りだからだろう普段よりも血色が良く、普段よりもずっとラフな格好をした名前が。
 そんなに不味くはないと思うよと謎の主張をしてくる名前に、野球拳はやっとの事で「俺がやろうと思ったら確定で吸血鬼になるって解ってる……?」と捻り出した。吸血鬼化には向き不向きがあるが、彼女はダンピールだし、野球拳大好きはそこそこ古い吸血鬼なので、いざ吸血鬼化させようと思ったら簡単にできる筈だ。
「解ってますよ」と、そう答えた名前がそのまま小さく笑い出したので、野球拳は漸く自分がからかわれていた事に気が付いた。どっと力が抜ける。
「おっさんをからかって楽しいかよ……」
「うーん」
 名前は返事をしなかった。

 にわかに立ち上がった名前は、暫く部屋の隅の方でごそごそしてから帰ってきた。その手には吸血鬼用の血液ボトルを抱えている。聞けば、誰か他の吸血鬼の為ではなく、先日病院に運んで貰った礼として、野球拳用に用意していたとのことだった。持ち歩く手間が省けたと笑う名前は、野球拳が止めるのも聞かず、普段使いのものらしいコップに注ぎ、野球拳に差し出した。
 仕方なく受け取りながら、ネェちゃん案外変わってるよなとぼやけば、名前は「そんなの野球拳にだけだよ」と笑った。彼女の言ったそれがどういう意味を持つのか、野球拳は考えることを放棄した。

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