過労と疲労と寝不足とそれから貧血。医者が説明した名前の状態は、大体そんなところだった。命の危険は無いと知り、正直なところ――野球拳は心底胸を撫で下ろしていた。

 野球拳大好きは今、近くの市立病院に運ばれた名前が宛がわれた病室で、彼女が目を覚ますのを待っていた。名前がダンピールだということを考慮してだろう、日当たりは悪い部屋だったが、そのおかげで助かった。朝陽はとうの昔に昇り切り、柔らかな日差しが燦々と辺りを照らしていた。
 彼女が病院に運ばれ、二時間ほど経った頃だろうか、彼女の上司だという男が見舞いに来た。もっとも見舞いというよりも、具合の確認と言った方が正しいだろう。医者に説明されたことを掻い摘んで話した野球拳に、男は至極真面目に頷き、それから「部下が世話になった」と野球拳に対して頭を下げた。
 ――本当に、調子が狂う。
 通報した友人として救急車に乗せられたのも、医者からも誰からも吸血を疑われなかったのも、吸血鬼対策課の隊長が自分に対して丁寧に礼を言うのも、こうして名前が目を覚ますのを黙って待っているのも、何もかも。
 名前の上司の男は、後は自分が面倒を見るから帰っても構わない、後日改めて礼をすると野球拳に告げた。しかし野球拳大好きが口篭っていると訳知り顔で頷き、実は仕事がハチャメチャに溜まっているので本当は即刻帰らなければならなかった、君が見ていてくれるなら助かる等と言い放ち、名前に伝言だけを残して早々に帰ってしまった。名前が目を覚ましたのはそれから更に数時間後、正午に差し掛かる頃だった。


 身を起こした名前は、暫くの間ぼうっとしていた。腕を頭上に掲げて背筋を伸ばしたり、眠そうに欠伸をしたり。それから辺りが自分の部屋でなく、どこか見知らぬ場所であることに気付いたようだった。怪訝そうに辺りを見回している。そして部屋の暗がりに野球拳が座っていることに気付いたのだろう、声にならない悲鳴を上げた。
「……よう。起きたかいおネェちゃん」
「野球拳……さん?」

 昨日のことを覚えてるか。そう尋ねると、名前は通報を受け、吸血鬼の集まりを諌めに行ったことは覚えていると言った。野球拳はそれからの事――集会は次回別の場所で開催することと名前の監視を条件に続行されたこと、そして暫くしてから名前が急に倒れたこと、救急に連絡して搬送してもらったこと――を説明した。もっとも、野球拳が説明する合間に、名前は凡その事情を把握したらしかったが。
 名前はかなり気まずそうな顔をしていた。しかしながら、昨日よりもずっと元気そうに見えるのは確かだ。公園に現れた時の名前は、正直なところかなり疲れている様子だった。
「あの、その……ごめんなさい、迷惑掛けちゃったみたいで……」
「いーんや。これくらい、他に比べたら迷惑でも何でもないね」
 実際、弟達やら、他の同胞に掛けられる迷惑の方がよほど厄介な場合が多いのは事実だ。
 名前は尚も申し訳なさそうな様子だったが、ヒヨシからの伝言を伝えると、漸く苦笑を浮かべたのだった。「昨日のことは気にせず、明日また普通に出勤してきてくれだとよ」


 ネェちゃんが目ェ覚ましたんなら帰るよ、と、立ち上がった野球拳大好きを、名前は慌てて引き止めた。確かに、この時間に病院を一歩でも出れば、途端に太陽の光が降り注ぎ、下等吸血鬼であれば一瞬でお陀仏になる筈だ。
「いいよ、日光に耐性ある方だし」
 野球拳はそう言ってから、「多分、弟達が待ってると思うし」と付け足した。
「いや、でも……うちの人間呼びますよ、昼でも吸対は活動してるので。うちの者で都合が悪ければ、タクシーとか……」
「ダンピールのおネェちゃんには解んないだろうけどよ、車って一番逃げ場無いんだわ」
 遮蔽物無い場所ずっと走られたら人生が詰む、そう野球拳が口にすると、名前は渋々と引き下がった。

 病院を出ると、たちどころに具合が悪くなった。名前に説明したことは嘘ではなかったが、死なないというだけで具合は悪くなるし、凄まじく気怠くなる。どこか日の当たらないところで横になりたい。そして寝たい。
 しかしながら、切っていたスマホの電源を入れれば、予想通り弟達(特にすぐ下の弟)からのメッセージ履歴が凄まじいことになっていた。確かに昨夜、野球拳は吸血鬼集会の後、下半身透明のところに顔を出す予定だったし、それを無断でボイコットしたのだから、まあこうなるだろうという具合だ。愛されてるな〜などと回らない頭で思いつつ、どうにかこうにか『今から帰る』とだけラインを送る。すぐに返事が来た気がするが、通知を確認するのも面倒臭かった。
 既に滲んできていた脂汗を拭いつつ、野球拳大好きは光の中を歩み始めた。


 日向の道を歩くなど、実に半世紀ぶりではなかろうか。うっかり朝になってしまった時は宿を探すし(それこそ、ビジホでもラブホでも廃墟でも何でも良い)、前に日中を歩いたのもごく短時間のことだ。市立病院から、廃墟になっている矢部病院までの道程は距離的には短いのだが、精神的にはかなり長く感じられる。
 世界が色で溢れていることを、野球拳は改めて思い知った。
 新横浜は知り尽くしている筈なのに、昼に見るだけでかなり景色が違って見える。人間が五月蝿く、そして楽しげだ。この陽気さは嫌いじゃない。嫌いじゃないが、本当に気持ちが悪い。段々と怠さが吐き気に変わって来た気さえする。やはり、日が沈むまで病院で待つべきだったのだろうか。それとも名前の言葉に従い、タクシーなり何なりで送ってもらうべきだったのか。
 電柱に寄りかかり、おぇ、と、小さくえずいた時だった。
「――野球拳!」
 そう言って駆け寄ってきた名前はどこか泣いているように見えて、この子はこういう顔をしていたのだなあと頭のどこかで考えた。

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