トーチカ

 正隊員の水上は凄く将棋が強い。恐らくだが、名前が指したことのある相手の中で一番強いのではないだろうか。小学生の時に入っていた将棋クラブの先生よりも、大学のゼミで一番強かった先輩よりもずっと強い気がする。業界用語的に言えば、棋力が高いということだ。
 この日も、ふらっとやってきた水上と対局していたのだが、二枚落ち――しかも飛車角落ちだ――で指しているにも関わらず、名前の駒は次々と取られていた。流石に試してみたことはないのだが、もしかすると歩兵と王将だけだったとしても、水上が勝つのではないかと嫌な予感がしている。自分が将棋が強いと思っているわけではないのだが、以前上層部の唐沢と指した時は圧勝したので、名前が特別弱いわけではないと思いたい。
 ちらりと、対面に座っている水上に目をやる。食堂の一角で、二人が挟んでいるのは持ち運びできるマグネット式のミニ将棋だ。駒一枚が親指の爪程しかないが、升目の数や駒の役などは通常のものと同じで本格的なものだ。ボーダーに将棋盤を持ち込むわけにもいかないし、生駒隊には水上しか将棋を指せる人間が居ないので、名前達の対局はいつもこれだった。
 水上くん、普通の将棋指してるのも似合いそうだな。
 見てみたいと思わなくもないが、ボーダー職員の名前が正隊員とはいえ未成年の水上を遊びに誘うのはかなり問題があるので、そんな機会は二度と訪れないだろう。視線を感じたのか、水上が名前を見返した。「何です? 言うときますけど教えませんよ」
「真剣勝負なんですから」
「ち、違うし! 別に、次の手が浮かばないとかじゃな、ないよ!」
「ほうですか〜? えらい長考してはる気がするけどなあ」
 ふ、と、水上は笑ったようだった。もっとも、笑ったと言っても目元を微かに緩めるだけだ。同じ歳の隊員達や、生駒隊の面々と一緒に居ても、水上が大声で笑っているところは見たこと無かったし、そもそも笑っているところを見たことがなかったのだが、こうしてよく一緒に将棋をするようになって、彼が案外表情豊かだという事に名前は気が付いた。扱い辛い子だと勝手に思っていたので、普通の高校生(もっとも、今年卒業だった筈だが)なのだと思えば、存外可愛らしく見える。

 名前は改めて盤面を見下ろした。飛車も角行もその範囲を活かせない。桂馬を差し込むことは出来る気がするが、数手もしない内に取られるような気がしなくもない。詰んではいないと思いたいが攻め込めない、そんな感じだ。考えに考えた末、名前は左自陣の歩兵を前に進めた。


 水上とこうして時折将棋を指すようになったのがいつからなのか、名前ははっきりと覚えていなかった。一年は経っていないと思うのだが、正直それもあやふやだ。水上が将棋を指せると知り、彼が通り掛ったところに声を掛け、それからコテンパンにされたのだったと思う。それ以後ちょくちょくと彼の方から名前のところにやってくるようになったのだ。曰く、ボーダーで将棋仲間が出来て嬉しいからと。
 将棋なんてネットを通せばいつでもできるし、わざわざ学業と防衛任務、訓練で忙しい合間を縫って名前の元を訪れる必要はないのではと思うのだが、彼との対局は名前にとってはとても楽しいものなので指摘しないでいた。気難しそうな水上が懐いてくれている様子なのは嬉しいし、彼がぽつぽつと悩みのようなものを打ち明けてくれるのも、大人として信頼されているようで、気恥ずかしいがその分誇らしい。そして何より、棋力が上の水上と対戦することは、名前にとっては利しかないのだ。
 対局の後、水上はいつも「あそこはああいう手があった」とか、「あの手は良かった」とか指摘してくれる。感想戦、もとい将棋講座だ。おかげで、名前は彼と指すようになってから、急激な成長を感じていた。高校生に教えられて恥ずかしくないのかと問われれば是と答えるしかないのだが、それでも彼との時間は楽しいものなのだ。しかし――。

 真剣に将棋盤を見下ろしている水上。名前が「あの」と声を掛けると、ちらりと目線だけを名前に向けた。「何です?」
「水上くんって、その、私とやってて楽しいのかなー……って、思ったりなんかしちゃったりして……」
「楽しいですけど」
「即答!?」
 迷い無く即答されて、名前の方が焦り始めてしまった。
 名前と水上は将棋好きという共通点があるにはあるが、彼と名前の将棋の実力は天と地ほどに違う。名前がいくら頑張って筋道を見付けても、彼はひょいひょいとその先を封じる手を打ってしまう。最初の頃、接待プレイとでもいえばいいのか、水上が名前に気を遣ってわざと接戦するような指し方をしたことはあるが、それを含めても名前は彼に勝ったことは一度もなかった(なお、その一戦以来敢えて手を抜くようなことはしなくて良いと伝えている。おかげで毎回ボコボコだ)。
「ほら、水上くんてめちゃくちゃ強いでしょ?」
「はあ」
「私とやってても練習にもならないじゃない。私は水上くんとこうやって将棋するの楽しいけどさ、するならするで、もっと強い人とやった方がいいんじゃないかなーって思って。大学の時の友達で将棋強い人居るし、良ければ紹介するよ!」
「……いや、ええですよ」たっぷり間を空けた後、水上が言った。「別にそないな気回してもらわんでも」
「俺はそない強い奴と戦いたいみたいな漫画の主人公みたいなこと思てないんで」
「けど水上くん、私がまずい手指すと凄く微妙な顔してる時あるじゃない」
「それは……」
 反論しない辺り事実だったらしい。切なくはなるが、言い出したのは名前だし、実際その通りなのだから仕方が無い。
「ほな次三枚落ちでやります?」
「いやいやいや、そうじゃなくてね」
 名前が今格上の水上との対局が楽しいように水上だって強い人とやる方がもっと楽しくなるに違いない、任務の合間を縫ってきてもらってる現状は正直申し訳ない、今はネットでいつでも互角の対戦相手がすぐに見付かる筈、それにやっぱり水上にだってもっと楽しんでもらいたい。そういった事を名前は力説した。

 水上は名前が話す間は勿論、話し終わってからも暫くの間黙っていた。迷惑に思ってるのだと取られてたら嫌だなとか、そんな事を考えながら、名前は彼の反応を待つ。やがて水上がゆっくり口を開いた。「……俺は、さっきも言いましたけど、名字さんと指すん楽しいんですけど」
「それに……」
「それに?」
「……それに、これ、今きちんと説明せなアカン感じですか?」
 水上は真顔だ。しかしながら、彼の顔は――ほんの少しだけ赤くなっている。むしろ動揺したのは名前の方だ。


 あわあわと、見るからに焦り始めた名前をじいと見詰めながら、水上敏志は内心で笑った。彼女との将棋は楽しい、それは事実だ。もっとも彼女が指摘したように、自分と彼女の棋力にはかなりの差があることも事実だ。
 水上には、盤上の彼女が何を考えているのか、手に取るように解る。
 いつもいつも、名前は考えに考えに考えて、そして大体悪手を打つのだ。そう来るんやと、心の中で逆の意味で感心したことは少なくない。今も、彼女は目の前の男子高校生の事について考えている筈だ。ぐるぐる、ぐるぐると。
 名前にはもっと考えて欲しかった。何故水上がわざわざ空き時間を作ってまで自分の元を訪れるのか、何故アプリでもネットでも何でも良いのに格下の名前との対局を望むのか。
「……ア」顔を赤く染め、もごもごとはっきりしない口振りで、名前が呟くように言った。「カン感じじゃない、です……」

 ほうですか、と返事をした水上は、普段通りの掴みどころのない射手に戻っていた。その時通知を知らせる電子音が響き、名前は慌てて自分のスマホを確認する。しかし音の主は名前ではなく水上で、どうやら生駒からの呼び出しを受けたようだった。
 ありがとう生駒くん――そんな事を思いながら「それじゃあ今日はここまでだね」と名前が言えば、「そうですねえ」と水上も同意する。もっとも表情こそ変わっていないものの、その声は笑っていた。

 ほな俺は次決めたんで、という水上の言葉を合図に、名前は盤面をスマホに収めた。所謂封じ手だ。対局が長時間に及ぶ場合、中断する際に両者間で不平等が出ないように、次の一手を予め決めておいて終了するというものだ。次の一手を敢えて指さないことにより、どちらも先の局面が解らない状態で対局を再開することができる。決まった休憩が取れる名前は兎も角、水上は多忙なので大体中断することになるのだ。ちなみに、名前は盤面の記録として写真に残しているが、水上は指し始めから全て暗記できるらしい。信じられない。
 名前がスマホを仕舞った時、ちょうど水上も次の一手をメモ用紙に書き終えたところだった。それを四つに折り畳み、ポケットの中に仕舞う。「何もわざわざ毎回封じ手にしなくても……」
「プロみたいやー言うてはしゃいではったんは名字さんやないですか」
「最初はね!」
 水上は小さく肩を竦めてみせた。「それに名字さん、こうしといた方がずっと俺のこと考えてくれるでしょ」

 二の句が継げなくなった名前に、水上は今度こそ笑ったようだった。ほなすんませんけど俺先行かしてもらうんで、と立ち去った水上の、その背が見えなくなるまで思わず見送ってしまった。数日のあいだ仕事に身が入らなかったのは言うまでもない。

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