持ち越し

 名前からラインが届いた時、マナー違反は内容を読んでから返答せずにいてやろうと思っていた。待ち合わせまであと一時間。この瞬間に届くメッセといえば、『ごめんね、ちょっと遅れちゃうかも』とか、『少し遅くなるからどこかお店に入って待っててくれる?』とかに決まっているのだ。
 しかしながら、マナー違反は名前にだけは“マナー違反”らしく振舞えない。嫌われたら嫌だし、捨てられたら嫌だ。
 このスマホの通知にも、既読無視をせず、結局は返信してしまうのだろうなという予感めいたものがあった――そんな風に考えてはいたものの、それらは全て杞憂に終わった。『連絡遅くなってごめん、今日のデート無しにしてくれる? 仕事急に入っちゃって』

 出迎えた名前は、玄関口に立つマナー違反に驚いた様子を見せたものの、すぐに「ごめんね」と頭を下げた。どうやら急な仕事が入ったのは事実だったようだ。机の上には乱雑に書類が散らばっているし、職場から帰ってきてからもずっと仕事を続けているのか着替えてすらいなかった。疲れ切り、見るからにヨレヨレな様子の名前に、悪態をつきそうになる口をぐっとつぐむ。
「……いつ終わるんだよ?」
「ごめん、本当にごめん、たぶん今日中には無理だと思う」
「………………」
 黙り込んだマナー違反に、名前は再度「ごめんね」と口にした。謝らせたいわけではない、謝らせたいわけではないのだ。人間の社会にはそれなりに精通しているつもりだし、名前の顔を見れば彼女が本当に申し訳なく思っていることは解る。断れない仕事というものが存在することだって、知ってはいるつもりなのだ。例え、それが楽しみにしていたデートの当日であっても。
 約束を反故にするのをマナー違反だ、とは思わない。相手が他ならぬ彼女であるならば。
 名前の説明によると、明日の会議に使う資料を大急ぎで作らなければならないのだそうだ。そんなもの、ダチョウにでも食わせてしまえばいいのに。再びパソコンに向き直った名前を眺めながら、名前が働いている会社をグール共に襲わせてやろうかなと、頭の片隅でほんの少しだけ考えた。


 マナー違反が名前の家に押し掛けてきてから、既に二時間以上が経っていた。ちらりと横目で見遣ると、手持ち無沙汰な様子でスマホを触っている。静かだ。
 始めの内、マナー違反は「家主の許可も取らずにテレビを見てやる〜」とか、「勝手に冷蔵庫の中を漁ってやる〜」とか、「本棚の本を全部逆さにしてやる〜」とか、普段の彼らしく一人で楽しそうにしていたのだが、名前がろくに相手をしなかったからか、それとも約束を破ってしまったことに対して本気で怒っているからなのか――本当に怒っているのであれば、さっさと帰っている筈だと信じたい――マナー違反は段々と静かになっていった。今や完全に無言になっている。
 美形の無言は色々と凄い。圧とか、圧とか。
 勿論、マナー違反は確かに普段から綺麗な顔をしているのだが、こうして喋っていないと改めて「ああこの人は本当に綺麗な人なのだな」と思う。自分なんかが隣に居て良いのかと、そう自問したくなるほどに。
 不意に此方を見た紅い瞳に、思わず視線を逸らしてしまう。
 普段は小学生の男子みたいなのにギャップがえぐい――絶え間なく通知音がし始め、スマホを確認すれば、送り主は当然のように吸血鬼マナー違反だった。何の脈絡もなく送られてくるスタンプの数々が本当に怖い。

「あの、マナくん」名前は知らず知らずの内に、自分が怯えていたことに気が付いた。普段はこんな呼び方はしないし、恐る恐る話し掛けることなんてない。「本当に、ごめん、今日中に終わらないと思うし、ぜんぜん帰っていいんだからね」
「………………」
 今度絶対に埋め合わせはする、自分のことは気にせず帰ってくれて構わない、今後はこんな事が絶対に無いようにする。名前は再三そう言っていたのだが、マナー違反はその都度不貞腐れたような顔をするだけだった。今も、名前の真意が解らないわけではない筈なのに、彼は口を噤んだままだ。
 いつでも可愛いけれど、いつものようにぺらぺら喋っていて欲しい。居た堪れないわけではないけれど、その方がずっと可愛い。
「や、約束を破ってデートを無しにしてやる〜」
 マナー違反が本当に悲しそうな顔をしたので、それから名前は死ぬ気で仕事を終わらせた。とっくに朝は始まり掛けていたが、それでも終わらせたのだ。最終チェックの後、仕事先に送る。――元々、マナー違反とのデートに合わせて、次の日は休みを取ってあった。彼との時間は夜に限られる。不備の連絡があった場合に備え、午前中いっぱいは様子を見ておきたいが、明日の夜ならば時間は作れるだろう。マナー違反が見せたあの顔は、まさか名前の似てない物真似に泣きたくなったからじゃないと思いたい。
 ――遮光カーテン、買っておいて良かった。
 仄暗い部屋の中、名前は先に寝ていたマナー違反の隣へと潜り込んだ。自分よりも少し低い体温の彼が愛おしい。
 隣で眠る吸血鬼が、パソコンの電源を落としたり、スマホを水に沈めたり、仕事の書類をシュレッダーに掛けたりしなかったとついに気付かぬまま、名前は浅い眠りへと落ちていった。

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