09

 七限目が終わった後、骨抜はぐったりとしながら――振り替え休日を挟んではいるものの、まだ体育祭の疲れが抜け切っていないのだ――も、級友達を尻目に教室を後にした。今日は水曜日、名字が委員会の当番に当たっている日だ。彼女は骨抜を自分の都合に付き合わせていることに対し、かなりの申し訳のなさを感じているようなのだが、骨抜としても一人自宅で黙々と勉強しているよりずっと気が楽なので、本当に気にしないで欲しい。
 そのあたりのニュアンスを伝えるのが難しいんだよな、と、そんなことを考えながら保健室の扉を開けようとした時、ちょうど内側から開け放たれた。すいません、と言いながら半歩後ろに下がった骨抜は、「おや」と自分を見上げているのが保健室の主、リカバリーガールだということに気が付いた。
「あんたが来ると、ああ四時になったんだなって思うよ」
「……そすか」
 どう返して良いか解らず、無難に答えたつもりだったのだが、リカバリーガールは「気を悪くしたなら謝るよ」と付け足した。慌てて首を横に振る。
 どこかへ行くのかと尋ねれば、これから職員会議があるのだという。
「じゃあね、後は頼んだよ」
「はい」
 普通に返事をしてしまったが、保健委員でもないのに後を頼まれて良いものなのだろうか。
 リカバリーガールはそのまま立ち去るように見えたが、ふと足を止め、骨抜の方を振り返った。「名字の調子はどうなんだい?」

「――ぼちぼちですね」骨抜が言った。「どういう制限があるのかとかは何となく解ってきました。単語だけとかなら、暗示にも掛かりづらいし」
「ああ、それは私達も助かってるよ。前はあの子、一言も喋らなかったからねえ……あんたのおかげさね」
「……いえ」
 名字の“個性”のコントロールを訓練するため、保健室を使っても良いかと尋ねた時、最初、リカバリーガールは難色を示していた。万が一の時の為に確実にヒーローの目の届く所で行いたいだとか、他の生徒に影響の無い場所が好ましいだとか、そういった骨抜の説得により、彼女は保健室の使用を許可してくれたのだが、彼女はこうも言っていた。自分としても、名字が“個性”を使えないままで良いと思っているわけではないのだと。
 “個性”は、自己の確立に直結する。それがどんな能力であれ、自身を蔑ろにしていて良い筈がないのだと、彼女はこっそりと骨抜に耳打ちした。

 私の“個性”も発動型だけど、逐一使おうと思って使うわけじゃないからねえと、リカバリーガールは静かに言った。骨抜もそうだ。自分の“個性”は触れたものを柔らかくさせる力だが、使うたびに“個性”を使おうと思っているわけではない。歩く時に、いざ歩こうと思っているわけではないように。息をするのに、呼吸の仕方を思い出す必要がないように。
「あんたには色々と感謝してるんだよ、本当に」
 はい、と頷いた骨抜に、リカバリーガールは優しく微笑みながら「そうだ、今日は備品の在庫確認をするんだよ、重たいものも沢山あるからねえ、手伝ってやっておくれね」と付け足した。骨抜は再び「はい」と答え、彼女の小さな背を見送ったが、もしや自分が既に頭数に入っているのだろうかと少々訝しんだ。もちろん、それはそれで全然構わないのだけれども。
 中に入ると、確かに名字が一人、棚の上の方にある引き出しを無理矢理取り外そうとしていたので、慌てて手伝いに駆け寄った。


 備品の確認が終わり、訓練が一段落した頃(骨抜は暫くの間、天井を見上げたくてたまらなかった)、保健室に来訪者が現れた。黒色支配は保健室の椅子に腰掛ける骨抜に目を留めると、かなり怪訝な顔をしていたが、名字が近寄っていったせいなのか、特に何も突っ込まなかった。
 どうやら、あまり大した怪我ではないらしい。名字が薬品棚の方へ向かうと、黒色も骨抜の方へとやってきた。そのまま先程まで名字が座っていた椅子に座ると、「何で此処に?」と問い掛ける。
「名字が保健委員だから、委員会の暇な時は此処で訓練して良いってことになってんの」
「ああ、あの、“個性”使えないとかいう子か」
 黒色は「マスクしてないから解らなかった」、と小さく言った。彼にそう言われてから、初めて骨抜も気が付いた。確かに今日、名字がマスクをしていない。
 彼女がいつもマスクを付けているのは、自身が“個性”の関係上あまり上手く会話が出来ず、周りに無駄な気遣いをさせないようにする為というだけなのだが、一種のトレードマークになっていることは否めない。骨抜は日頃から彼女と昼食を共にし、素顔を見慣れている為、あまり違和感を抱かなかったのだが、確かに彼女は今日マスクをしていなかった。

 何か心変わりするようなことでもあったのだろうか、と考える骨抜に、黒色は「お前本当に練習付き合ってやってるんだな」とどこか冷やかすように笑った。しかしそんな黒色も、名字に肩を突かれたことで飛び上がらんばかりに驚いた。黒色の過剰な反応に、名字の方も心底驚いたようで、「ごめんなさい」と珍しく直接話したほどだった(黒色は黙ったまま首を横に振った)。
 黒色の怪我はどうやら軽い突き指だったようで、骨抜の通訳もあり、リカバリーガールの帰りを待つことなく名字が処置して終わった。丁寧に治療をされ、綺麗に巻かれた指先の包帯を眺めていた黒色だったが、名字が少し席を離れると、「あの子、俺のこと好きなのかもしれん……!」とどこか興奮したように小声で言った。
「俺に優しいし、最近よく目が合うし……!」
「……あいつ、誰にでもああだし、よく目が合うのもお前が俺とよくつるんでるからじゃね」
 二人の間に微妙な空気が流れたが、名字が戻ると黒色は焦ったように立ち上がり、そそくさとした様子で保健室を後にした。名字は不思議そうにしていたが、骨抜は特に何も言わなかった。


 名字あれやんないんだねと骨抜が言うと、名字は首を傾げてみせた。何のことを指しているのか、さっぱり解らないらしい。骨抜が「痛いの痛いののこと」と口にすると、漸く納得したような表情になった。何事かを言いたげに、口をもごもごさせる。
「――――――」
「え、何?」
 名字は口パクで何かを言ったようだったが、骨抜には解らなかった。彼女は苦笑を浮かべ、取り出した携帯にいつものように猛烈なスピードで文字を打ち込み、そうかと思えばすぐさま液晶画面を骨抜の方に向けた。彼女の携帯には、ただ一言、“忘れてた”とだけ書かれていた。――何となく、釈然としないのは何故なのだろうか。

 この日、名字がマスクをしていなかったのは、実は体育祭の日につけていたマスクが最後の一枚で、休みの間に買いに行くつもりだったのだが、うっかり忘れていたからというだけのことだった。
 前より喋れるようになってきたんだし、もうマスクしてなくても良いんじゃねと骨抜が言うと、名字は少しだけ気後れしていたようだったが、やがて「うん」と頷いた。まさか、口パクで話されても解るようになりたいからだなどと言えるわけがない。
「そういえばさ、前の時思ったんだけど、普通“痛いの痛いの飛んでけ”じゃん。何で“ちょっとだけ飛んでけ”なん?」
「痛覚、無くなると困るし」
「怖……」

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